日本は冬が終わろうとしていた──春が始まろうとしていた。 陽の光がそれほど強かったわけではないし、空気はまだ冬のそれらしく澄んで冷たかったのだが、俺は瞬のいる国の明るさと眩しさに激しい目眩いを覚えた。 城戸邸は、2年前と変わらぬ佇まいを呈していた。 金はそれなりにかかっているんだろうが趣味の悪さは疑えない正門から正面玄関に続く道が嫌いだった俺は、かつて知ったる他人の家と、裏門から邸内に入っていった。 芽吹き始めた喬木の林の奥に隠れるようにひっそりと存在するその門は、俺たちが──俺と瞬が──城戸邸からの出入りの際、好んで利用していた門だった。 2年前と変わらないその風情に俺は安堵し、そして、俺の中にある期待の念は、更に大きくなった。 瞬もきっと変わらないでいてくれる──と、俺は根拠のない確信を抱いてしまったんだ。 あの瞳に映る自分をもう一度見たい。 瞬を、もう一度この手で抱きしめたい。 ほんの少し、自分のプライドを曲げるだけで、それが叶うのである。 少なくともあの時、あの頃、瞬はいつも まっすぐに俺を見ていた。 くだらない理由で瞬を『切り捨てる』などと言い出した俺の言葉に、瞬は傷付いたに違いない。 俺は瞬に謝罪しなければならない。 そして、その上でもう一度、おまえが欲しいと告げるのだ──と、俺は一人で勝手に二人の物語の筋書きを作り、その筋書きを 瞬もまた喜んで受け入れてくれるものと信じていたのである。 だが。 俺の期待は、家人用の玄関から予告なしに走り出てきた瞬の笑顔に、あきれるほどあっさりと打ち消されてしまった。 (瞬……!) 瞬は笑っていた。 俺が側にいないというのに、屈託なく、幸せそうに、瞬は瞳を輝かせていた。 2年の歳月が経ったというのに、瞬にはあまり変わった様子がなかった。 まるで瞬の周りだけ時間が止まっているのではないかと思えるほど、瞬は16歳の時のままだった。 自覚できるほどに自分の姿が変わってしまったことを知っていた俺には、瞬の変化の無さが奇跡のように思われた。 声をかけることなどできるはずがない。 たとえ、あの時、瞬の心の内に幾許かの真実が存在していたのだとしても、一方的な俺の別離の宣告に瞬が傷付いたのが事実だったとしても、生きていくために、人はそれを忘れることができるのである。 そんな当たり前のことに考えを及ばせもせず、思い出の中の瞬の瞳だけを信じて、ここまで のこのこと出向いてきた自分がどうしようもなく愚かな男に思えて、俺は自嘲を禁じ得なかった。 何を期待していたんだろう――と思う。 俺は、瞬に何事かを期待できるような男ではないというのに。 すべては自業自得で、そして、失ってしまった時間を取り戻すことは、おそらく決してできないのだろうことを、俺は絶望と共に自覚した。 そう。 それは、“絶望”だった。 瞬に代わる何かを見付け出すためにシベリアに帰った俺は、結局、瞬以外の“欲しいもの”を探しあてることができずに、恥知らずにも日本へ舞い戻ってきたのだから。 「早く行こーよお! 明日で もうスケートリンク閉鎖されちゃうんだからね!」 瞬に知られぬうちにその場を立ち去るべきなのだろうと思いはしたのだが、何か一言でいいから、俺に向けられた瞬の言葉を手に入れたくて、俺はその場に無言で立ち尽くし、瞬が俺の存在に気付いてくれるのを待っていた。 「今日を逃したら、もう来年までアイススケートできなくなっちゃうんだからね! 早く早く!」 後ろを──多分、そこに一輝がいるのだろう──振り返りながら、瞬が俺のいる方に駆けてくる。 行く手に人の気配を感じとって、瞬はゆっくりと顔をあげた。 旧友との再会に笑顔を向けてくれるのか、あるいは、自分を見捨てていった恋人に嫌悪の表情を向けてくるのかという俺の推察のどちらをも、瞬は裏切った。 瞬は、俺の姿を目にとめ、一瞬ひどく不思議そうな顔をして首をかしげた。 そして、少しばかり戸惑った様子で、俺に尋ねてきた。 「 「……?」 「広いから迷われたんでしょう? こっちは正門じゃないんです」 (瞬……?) いくら2年の間 互いに音信不通だったとはいえ、瞬が俺を忘れてしまったなんてことがあっていいものだろうか。 俺は、そこまで自分を印象の薄い男だと思ったことはなかったし、そこまで瞬の記憶力が頼りないものだとも思えなかった。 だが、わざとそんなことを言ったにしては、瞬の瞳には罪がなさすぎる。 瞬は、呆然としている俺の脇を、さして気にとめた様子もなく、すり抜けていった。 数メートルほど行ったところで、再び立ち止まり、後ろを振り返る。 「氷河ーっ! 早くーっ!」 聞き間違いと思ってしまうにはあまりに明瞭な発音で、そして 大きな声で、瞬は俺を呼んだ。 状況を把握できず、理解することは なおさらできず、俺の頭は目一杯混乱してしまったのである。 瞬は確かに俺の名を呼んだのに、その視線は俺の上を素通りしていたんだ。 瞬の視線がどこに──誰に──注がれているのかを、すぐに俺は知ることができた。 それは、2年前、俺の判断力を狂わせた瞬の兄の上に据えられていた。 一輝は、その場に俺の姿を見い出して、ひどく驚いたようだった。 が、その驚きの色を、奴はすぐに消し去った。 代わりに、どう考えても憎しみのそれとしか思えないような視線を俺に向けてくる。 だが、それすらも、一輝はすぐに俺の上から逸らしてしまった。 「ああ、今行く」 俺の脇をかすめて、一輝が、あまり急いだふうもなく瞬の側に歩み寄る。 すれ違いざまに、奴は、憎々しげな呟きを俺に叩きつけた。 「みんな、貴様のせいだ……!」 「……!」 なぜ奴が俺にそんなことを言うのか、俺はすぐには理解できなかった。 奴が自分の弟に向けている愛情は、世間一般の兄が弟に向けるそれとはまるで異質で、俺と瞬の間にあったことを知った時、奴が俺に対して抱いた憎悪は生半可なものではなかった。 俺が瞬の側から離れていくことを誰より望み、誰より喜んだのは奴だったろうと、俺はずっと思っていたんだ。 しかし、奴の怒りが至極当然のものだということを、俺はすぐに知ることができた。 瞬は、一輝に向かって言っていたんだ。 “氷河”を急かすその言葉を。 「氷河ってば、もう少し あせってよね! 2時間スケートしたら、氷河のおごりで昼食、その後、バチカン宝飾展を見学して、また次、氷河のおごりでお茶を飲む──って、今日のスケジュールは しっかり決まってるんだから!」 瞬は、一輝の腕にしがみつき、少し拗ねたようにそう言った。 「だから、外に出るのはやめようと言っただろう」 一輝の素っ気ない声音に、瞬が微かにたじろぐ。 「そ……りゃ、僕は、氷河と一緒にいられるのなら、どこにいても、何しててもいいけど、僕、氷河が喜ぶと思ったんだよ。氷のあるとこ……好きでしょう?」 おそらく、俺がここに居あわせているからなのだろう。 一輝は不機嫌そうに ぼそりと瞬に告げた。 「好きじゃない」 一輝の突き放すような物言いに、瞬は急に弱腰になった。 「氷河……な……なに怒ってるの。僕……が、何かしちゃったんなら ごめんなさい……! ね、氷河、怒らないで。やだ、もう僕を置いてかないで……!」 「……」 一輝が、瞬のすがるような瞳を、無言で見おろす。 俺はといえば、この事態の訳が飲み込めずに、為す術もなく、“氷河”と瞬のやりとりを、ただ見詰めているだけだった。 それは、2年前、俺が『シベリアに帰る』と瞬に告げた時、心の奥底で瞬に言ってほしいと望んでいた言葉だった。 「……俺はおまえに置いてきぼりをくわせたことなどない」 一輝が、どこかに諦めを含んだ口調で言う。 瞬は、自分がなぜそんなことを“氷河”に哀願するのか、その訳を思い出せずにいる様子で、それでも、こくりと小さく頷いた。 「うん……」 一つ、大きな嘆息を洩らしてから、一輝は俯いてしまった瞬の肩を抱き寄せた。 「……行くか」 一輝の言葉に、瞬がぱっと瞳を輝かせる。 「うん……!」 瞬は、そして、再び一輝の腕にすがるようにしがみつき、“氷河”と共に、俺が入ってきた門の方へと歩き出した。 『でも、それでもどうしても耐えられないような悲しいことが起こった時には、すぐにそれを忘れてしまえるようにできていればいいのにね、人間の心とか記憶の中枢とか、が』 『狂ってしまう奴はいるな』 『あ、それでもいい。そういう自己防衛機能っていうのも、人が生きていくのには必要なものだし、人間のたくましさの現われでもあるよね』 俺は言葉を失い、その場に立ち尽くした。 「僕を置いてどこかに行っちゃわないでね、氷河」 瞬が、その瞳に、切なさと明るい光とを漂わせ、“氷河”の名を口にする。 ──ほんの数ヶ月の間だけの恋人──。 瞬が本気で“氷河”を求め、必要としていたことを、俺は初めて知った。 Fin.
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