久しぶりの日本で、瞬は久しぶりに氷河に会った。
相も変わらず金色の髪をして、相も変わらず無愛想な表情の。
嫌われている相手だと分かっていても、氷河が生きて帰ってきてくれたことを嬉しいと感じてしまう自分を、瞬は自嘲した。
だが、一輝が帰ってこない。
今となっては自分を愛してくれるただ一人の人が、自分の前に姿を現してくれない。
兄の不在を慰める力は、氷河からの手紙にもないようだった。


氷河は、城戸邸の自室に付いている洗面室で鏡を睨みつけていた。
鏡の中の自分を睨みながら、呻き声とも唸り声ともつかない低い声を、1分おきに洩らしている。
30分も睨めっこを続けたあげく、自分の顔を見ているのに飽きたのか、氷河はやっと洗面室を出て、自分の部屋のベッドにごろりと横になった。
開け放たれた窓の外には秋の夜空が見え、秋の星座が見え、やがて、それらのものを吹き飛ばすように、瞬の幻が氷河の脳裏に映った。

(いーったい、瞬は、俺の何が気に入らないんだっ! そりゃあ、若気の至りで片目を潰すなんて馬鹿なことをしたりもしたが、それでも、そんじょそこいらの阿呆どもよりは、よっぽどマシな顔をしているはずだぞ、俺は。ましてや、あの不細工な冥闘士たちを、これでもかこれでもかってくらい見せつけられた後なんだ。十二宮やアスガルド戦の後とは訳がちがうんだ。普段の三倍増しでいい男に見えてるはずなのにっ!)

瞬が面食いだと信じている氷河の苦悩は、もっぱら自分の容貌の衰えへの懸念に集中していた。
日本で瞬に再会した時、瞬が辛そうなのは一輝が戻ってきていないからだと思っていた。
殺生谷、十二宮、etc. ――と共に闘っている間、時折り近づけたような気がした次の瞬間にはふっと離れていってしまう瞬に苛立ちつつ、真面目な瞬のことだから、『世界の存続がかかっている闘いの最中に、惚れたはれたは不謹慎』と思っているのだろうと自身に言い聞かせ、自分を抑えてきた。

しかし、永遠にこないかと思われた平和の時はきたのである。
今はせいぜい、A国のI国に対する爆撃とか、B国での内戦、C国での部族間抗争等々、子供の喧嘩程度の争いしか、この地上では行われていない。
聖闘士が平和を謳歌し、恋を楽しむのに何の支障もない時が、今、氷河と瞬の前には横たわっている。
だというのに、瞬は相変わらず、氷河が近づいていくと、すっと逃げていってしまうのである。

(そりゃあ、確かに、何もかもガキの頃と同じとはいかないさ。あの頃みたいにまん丸い目じゃなくなってるし、顔も少々縦に伸びた。体格だって、ガキの頃とは違う。お世辞にもカワイイなんて形容詞はかぶせられない外見だが、俺はガキの頃だって、全然可愛いガキじゃなかった)

それでも瞬は、自分を綺麗だと言い、その髪に触りたいと言ってくれたのである。条件は、6年前と変わっていないはずだった。
もし変わってしまったものがあるとすれば、それは、瞬の心の方である。
そう考え及ぶと、氷河はすぐにその考えを打ち消した。
その考えが真実かどうかは大した問題ではない。
ただ、氷河は、そんな“真実”を受け入れることはできなかった。
受け入れる気など、毛頭なかったのである。


平和な時を鬱々と過ごし、鬱々しているのに我慢できなくなった氷河は、ある日、意を決して行動に出た。
瞬の意思を尊重して、瞬の方から何か言ってきてくれるのを待っていたら、それこそ人類が百回滅んでしまう。そんな長い時間を無為に過ごすのに、氷河はもう耐えられなかったのである。
「おい、瞬。話がある」
庭先にいた瞬を捕まえた氷河の言葉を、瞬はにこやかに躱そうとした。
「すみませんが、後にしてくれませんか? 僕、これから紫龍と一局将棋をさす約束をしてるんです」
「おまえと紫龍の一局が終わるのを待ってたら、3日じゃ済まないだろう。平気で長考3時間なんてやってるんだからな!」
「時間無制限でやってますから」

その一局が終わったら終わったでまた、瞬は別の用事を作りだして、氷河を避けようとするに違いない。
命を懸けて共に闘う仲間の振りをそつなくこなしながら、瞬が氷河との間に一定の距離をおこうとしていることに、氷河は、以前から気づいていた。
闘いの最中であれば、自分の命の危険も省みず氷河を庇い救おうとしてくれる瞬が、闘いという幸福な時間が過ぎると、途端に氷河から離れていってしまうのである。
今日こそは逃してなるかと、氷河は、瞬を引き止めるために勝手に話を始めてしまった。

「おまえが俺を避ける理由が分からないんだ。教えてくれ」
「避けてなんかいませんよ。ちゃんとこうして話の相手もしてるでしょう」
瞬があっさり言い切って、そのままその場を立ち去ろうとする。
氷河はその腕を掴んで、瞬を引き止めた。
「そーゆー相手じゃなくてだなっ!」
「どーゆー相手です」

早くこの場を立ち去りたいと思っている様子を見え隠れさせる瞬に、氷河は苛立ちを禁じえなかった。
その苛立ちを無理に抑え、しばらく間をおいてから、氷河は少し意味深に、探るような目つきで瞬を窺いみた。
「……おまえ、ガキの頃、俺に手紙をよこしたことがあるぞ。俺に触りたいって」
「記憶にありませんけど……。何です、それ。人を痴漢みたいに」

瞬は素知らぬ振りをして済まそうとしたのだが、氷河はそれを許さなかった。
「おまえが白を切ろうとしても、こっちには物的証拠がある」
「あれ、まだ持ってるのっ !? 」
瞬が、つい大声で叫んでしまう。
氷河は、ほんの一瞬、あっけにとられたような顔になった。

「ちゃんと憶えてるんじゃないか」
「う……」
瞬は言葉に詰まり、そして、白を切り通せそうにないことを悟ると、半ば開き直った。
本当は、それは、二度と触れたくない辛い思い出だったのだが。

「でも、僕の手紙のこと憶えてるのなら、氷河だって僕に返事を書いたこと、憶えてるんでしょう」
「無論」
「だったら、僕に近寄らないでください」
「……」
睨みつけているのに、瞬の瞳の奥には涙がたまっているように見える。
氷河は、その様子に少しくらくらしかけて、慌てて気を取り直した。

「おまえ、まさか、あの手紙のせいで俺を避けてるのか?」
「……」
今度は瞬が言葉に詰まる。
瞬が黙り込んでしまったのは、氷河への返答に窮したからではなく、いつまでも子供の頃の出来事を忘れることができずにいる自分を訝ったからだった。
忘れてしまえるくらいの時間は経ったと思うし、いつまでも子供だった頃のことにこだわっているのも大人げない。
これまで一緒に同じ闘いを闘ってきた間には、氷河も自分を嫌いでなくなってくれているかもしれない――と、瞬は思った。

日本で氷河と再会してからこっち、氷河は瞬に対して、少なくとも嫌悪や軽蔑の表情を向けてきたことはなかったのだ。
「そう……ですね。あの手紙のことはもう忘れましょう。氷河だって、子供の頃とは違う目で僕のこと見てくれるようになってますよね?」

『もちろんだ』と、氷河は答えてくれるだろう。
そうすれば、氷河がそう答えて笑ってくれさえすれば、幼い頃からずっと胸にくすぶり続けていた苦い思い出から解放される――。
期待を打ち消せずに、瞬は氷河の答えを待った。
が、瞬のその期待は、いともあっさり否定されてしまったのである。
「変わってない」
「え?」
「おまえには悪いが、変わっていない。俺は執念深い質なんだ。滅多やたらに価値観を変える男でもないしな」

まるで大して重要なことではなさそうに言う氷河を、瞬は呆然と見詰めていた。
手紙をやり取りした子供の頃はいざしらず、励まし合い庇い合って命懸けの闘いを共に乗り越えてきた今ですら、氷河は自分のことを嫌っているらしい――瞬は唇を噛みしめた。
地上の平和だの、人類の幸福だののために闘ってきた、これまでの闘いの全てが何の意味もないことだったような気がして、全身から力が抜けていく。
「それは――とても残念です……」
涙が頬に零れ落ちる前に、瞬は踵を返し邸内に駆け込んだ。






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