「消えちゃった――」
この急転直下の展開についていけず、瞬はしばらく思考を形作ることができないまま、ひたすらぱちくりと瞬きを繰り返していた。
もちろん瞬は、氷河や紫龍のように現実的な男共とは違って、半分はメルヘンの国の住人だったから、鏡の精のあられもない恰好に驚きはしても、鏡の精の存在そのものを疑いはしなかった。
バスルームの鏡にも鏡の精がいるんだったら、ちょっと恥ずかしいな――というのが、鏡の精の存在を目の当たりにした瞬の“驚き”だった。
つまり、瞬は、あまり驚かなかったのである。

だが、その瞬にも、理解できないことが一つあった。
それは、つまり、『なぜ、自分がご褒美をもらえるのか?』ということである。
(僕、ただ鏡を割っただけだったのに……)
それが“ご褒美”の対象になるのなら、十二宮の建物をほとんど瓦礫にしてしまった時の方が余程立派なご褒美にあずかれそうなものだったのに――と、瞬は悩んでしまったのだった。

それはともかく。
しばらくして気を取り直した瞬は、鏡の精のご褒美がどれほどの力を持つものなのか試してみたくなったのである。
何にでも変身できるって言ってたな、あのネグリジェの人)
ちょっと考え込んでから、瞬は、瞬の憧れの人(!)に変身してみようと思いついた。
で、おもちゃのコンパクトに向かって曰く、
「テクマクマヤコンテクマクマヤコン、キグナス氷河になぁれー」
瞬がなぜそんなモノに憧れているのかはさておいて、瞬が魔法の呪文を唱えると、コンパクトの鏡の中には確かに金髪碧眼の氷の聖闘士が現れたのである。

「うわあ」
瞬は歓声をあげて狂喜した。手足が伸び、肌が浅黒くなり、天井が少し低くなったように感じる。
「あいうえお、かきくけこ。わあ、声まで氷河だーっ!!」
もう、何をどう喜べばいいのかわからない。
瞬は感極まって部屋中を走りまわり、ダイヤモンドダストを連発して室内を氷だらけにしてしまった。

「あ……せっかくお掃除したのに……」
氷河の顔でしょんぼりした瞬は、しかし、すぐにナイスなアイディアを思いついたのである。
「ラミパスラミパスルルルルルー」
と元の姿に戻った瞬は、次に、
「テクマクマヤコンテクマクマヤコン、一輝兄さんになぁれー」
そして、
「鳳翼天翔ーっ!」
かくして、氷河の部屋は炎に包まれた。

「やだっ。今度は火事になっちゃうっ!」
一輝の顔と声で大慌てした瞬は、
「ラミパスラミパスルルルルルー。テクマクマヤコンテクマクマヤコン、ドラゴン紫龍になぁれー」
そして、
「盧山昇龍覇ーっ!」
ざざざざざーん! である。
それで一応火事は収まったのだが、ついでだったので、
「ラミパスラミパスルルルルルー。テクマクマヤコンテクマクマヤコン、ペガサス星矢になぁれー」
そして、庭に向かってペガサス流星拳を放って、一通り仲間たち全員の技を試した瞬は、感動と興奮で胸をどきどきさせながら、元の姿に戻ったのである。
興奮冷めやらず肩を上下させながら、瞬は、おもちゃのようなコンパクトの力にごくりと息を飲んだ。

これは本当に魔法のコンパクトである。何にでも、どんなものにでも変身できる。
そう考えて、瞬は少し冷静になった。
そして瞬は、これまで彼が読んだことのあるたくさんの童話を思い返してみたのである。
魔法のランプ、魔法の指輪、魔法の魚、魔法の石臼、そしてせむしの仔馬。
どれもこれも、使い方を間違ったり悪い人の手に渡ったりするととんでもないことになっている。
このコンパクトも、世のため人のためになる正しいことにだけ使わなければ、とんでもないしっぺ返しが待っているだろうことを、賢い瞬はすぐに理解した。
つまり、瞬は、このコンパクトを使って、誰もが喜ぶもの、見て楽しんでもらえるものにならなければならないのだ。

(でも、誰にでも喜んでもらえるものって、何だろう……?)
これは、簡単なようで実に難しい問い掛けである。
瞬はとりあえず、自分が見て嬉しい等身大のクマのヌイグルミに変身して床に座り込み、悩み始めた。

(ドラえもんはどうかな……。ミッキーマウスかピーターラビットの方が喜んでもらえるかな……。僕だったら、たぁ坊とかスヌーピーが嬉しいけど、やっぱりウルトラマンやマジンガーZみたいな正義の味方がいいかな。でも、おっきい正義の味方だと、かえってみんなの迷惑になるかもしれないな……)
悩んでも悩んでも、その上にも一度悩んでも、答えはなかなか出てこない。
うーんうーんと唸っているところに、やってきたのはキグナス氷河。
彼は、自分の部屋の真ん中にででんとクマのヌイグルミがでばっているのを見て、目をむいた。

「瞬! 何やってるんだ、そんな恰好で!」
あきれた口調でクマのヌイグルミに歩み寄ってくる氷河を視界に映し、瞬は、じわりと胸の奥から湧きあがってくる感動に支配されてしまったのである。
「氷河……僕だってわかるの !? 」
「そりゃあ……」
(他に誰がいるんだ。クマの着ぐるみ着て喜ぶような奴なんて…)
と、実は氷河は、瞬の感動とは別の次元で冷静な判断をしていただけだったのだが、瞬にはそんなことはわからない。

「見りゃ、わかる」
「でも、僕、今、クマのヌイグルミでしょ」
「そりゃそーだがな……声がおまえじゃないか」
「う……うん、そうだけど……」
だが、氷河は、声を聞く前にクマのヌイグルミを『瞬』と呼んでくれたのだ。
それがわかっているから、瞬の感動は薄れることはなかった。
コンパクトを開き、本来の姿に戻る。
眼前で展開される不思議な光景に初めて驚愕しまくっている氷河ににっこりと笑いかけてから、瞬は再度呪文を唱えた。
「テクマクマヤコンテクマクマヤコン、キグナス氷河になぁれー」
と。

そして、氷河の前に現れたのは、もう一人の氷河である。
金色の髪と青い瞳。
身長も体格も本物と瓜ふたつの、だが、瞳の輝きだけはひどく素直そうな。
「ねっ。これならどう? びっくりした? 氷河だよ、カッコいいでしょ」
と、自分の声で言われる気持ち悪さに、氷河は吐き気をもよおしかけていた。
いったい何がどうなっているのだろう。
氷河には訳がわからなかったが、ともかく、それより何よりこの気持ち悪さである。

「氷河がふたり。ふーたりきりだねー、今夜からはー♪ ふーたりのためー、せーかいはあるのー♪ ただふーたーりーだけでー生きてーいたーいのー♪」
瞬は、浮かれまくって“ふたり”メドレーを歌いだす始末。
瞬は瞬なりの価値観で、氷河が増えたら誰だって嬉しいに決まっていると思い込んでいたのだが、しかし、それは瞬にしか通じない価値観だった。

「瞬、やめろっ! 元に戻れっっ!」
悪鬼のごとき形相で怒鳴りつける氷河に、浮かれていた瞬が――氷河の姿をした瞬が――びくりと身体を震わせる。
「ラ……ラミパスラミパスルルルルル――」
びくびくしながら元の姿に戻った瞬は、神妙な顔をして氷河の前に立った。
どうして氷河の機嫌を損ねてしまったのかはわからなかったが、自分が悪い事をしてしまったのだろうとは思ったのだ。
氷河のお小言を覚悟して項垂れた瞬の上に、だが、氷河の叱責は飛んでこなかった。
代わりに、疲れたような声が降ってくる。

「――事情を説明しろ。いったい何がどーなってこんなことになったんだ」
「は……はい……」
恐る恐る氷河の表情を窺い見ながら、瞬は事の次第を彼に説明したのである。
すなわち、鏡を割ったご褒美に、はしたない恰好をした鏡の精に魔法のコンパクトをもらったことを。






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