聖家族






雪人ゆきとくん、氷河を起こしてきてくれない?」
さっさと朝食を終えて今日の弁当の中身を覗き込みにきた高一の長男に、瞬は何気なく声をかけた。
広いダイニングキッチンには穏やかな秋の陽射しがあふれ、そこには見るからに幸福な家庭の幸福な朝の風景が展開されている。
この春から長女の月香つきかが中等部にあがり、瞬の作る弁当は二つになっていた。

「やだよ。こないだヒョーガを起こしにいって毛布ひっぺがしたら、ヒョーガの奴、すっ裸で寝てたんだぜ。朝からあんなモノ見るのは、もう御免だ」
雪人は弁当の中身には満足したらしかったが、瞬の頼みを快く引き受ける気にはなれなかったらしい。
彼は氷河そっくりの顔を歪めて、言下に瞬の頼みを拒絶した。
弁当をランチボックスに入れようとしていた手を止めて困ったように顔をあげた瞬の視線が、ダイニングテーブルでトーストをかじっていた長女の月香と合う。

月香は、瞬が口を開くより先に、その唇をとがらせた。
「シュン、まさか私にそんなもの見にいけなんて言わないわよね? 多感な年頃の乙女に、シュンがそんなひどいこと頼むはずないわよね?」
言われて、瞬が言葉に詰まる。
氷河と同じ金髪を長く伸ばし、氷河と同じ青い瞳を持った12歳の長女は、我の強いところと頭の回転の速さを氷河から受け継いでいる。
嫌となったらテコでも動かないことを、瞬はよく知っていた。

――いつもの朝の風景。
氷河と瞬がそれまで仲間たちと共に暮らしていた城戸邸を出て、この郊外の家に引っ越してきて10数年になる。
きっかけは雪人の誕生だったが、引っ越して3年後、月香が家族の仲間入りをした。
そして。
「雪人おにーちゃん。月香おねーちゃん。僕とはなちゃんがヒョーガを起こしてきてあげる」
「雪人おにーちゃん。月香おねーちゃん。私とふーちゃんがヒョーガを起こしてきてあげる」

雪人と月香が断固拒否した仕事を引き受けようとする殊勝な子供が、この家には二人いた。
瞬をそのまま幼くしたような面差しの、風人ふうと花香はなかの双生児である。
幼稚園の年少さんのこの双子は人生経験が浅く、まだこの世に恐いものの存在を知らない。
両手で握りしめていたオレンジジュースのグラスをテーブルに置くと、二人は全く同じタイミングで椅子から飛び降りた。
恐いもの知らずというよりは、二人一緒なら何も恐くはないと信じ込んでいる双子が、しっかりと手をつなぎあって、氷河と瞬の寝室に向かおうとする。
男女の二卵性なのに、へたな一卵性双生児よりそっくりな二人を遮ったのは、彼等の兄と姉、だった。

「だーめよ。ふーちゃんとはなちゃんには、寝起きのヒョーガなんて危険だわ」
「そうそう。ふーとはなは朝のヒョーガに近寄っちゃ駄目だぞ。怪我しちゃうからなー」
まさかとは思うが、寝ぼけた氷河がこの双子を瞬と見間違えて、けしからぬ振舞いに及ばないとも限らない。
雪人と月香は、弟妹の3、4倍の人生経験によって、『転ばぬ先の杖』という格言を知っていた。

「ヒョーガ、暴れるの?」
「ヒョーガ、暴れるの?」
兄と姉にそれぞれ引き止められた弟と妹が、自分を抱きあげている兄と姉の青い瞳を覗き込むようにして尋ねる。
「ん。まあ、似たようなもんだ」
「だから、ヒョーガを起こすのはシュンのお仕事なの。私や雪兄さんやふーちゃんやはなちゃんがヒョーガのせいで怪我したら大変でしょう?」
「そんなのだめ。シュンちゃんが泣いちゃう」
「そんなのだめ。ヒョーガがシュンちゃんに怒られちゃう」

双子が泣きそうな顔になって、雪人と月香にしがみつく。
雪人と月香は小さな弟と妹の頭を撫でながら、ちらりと意味ありげな視線を瞬に投げた。
その視線の先で、瞬はすぐに観念した。
すとんと肩を落とし、溜め息をつく。
「じゃあ、雪人くん、月ちゃん、自分のお弁当は自分で包んでね。僕、氷河を起こしてくるから」
金髪二人組は、瞬のその言葉を聞いた途端ににこやかになった。
「おっけおっけ。ヒョーガの相手よりずっとマシ」
「お務め、ご苦労様でーす」

弟妹を元の椅子に戻した二人が、いたって素直に命じられた仕事にとりかかる。
瞬を人身御供として氷河に差し出すことに、彼等は全く罪悪感を覚えていないようだった。
「いいなー、シュンちゃんのおべんと」
「いいなー、私も幼稚園に持っていきたい」
弟妹思いの兄と姉に背中を押されるように瞬がダイニングを出ていくと、双子は今度は兄と姉のランチボックスを羨ましそうに見詰め、幼児特有の高い声で兄と姉に訴え始めた。
彼等の通う幼稚園は、お十時、昼食、三時のおやつのすべてを幼稚園側で準備するシステムになっているため、食べ物の類は持っていきたくても持っていけないのだ。

「あと7年経ったら、ふーちゃんもはなちゃんも毎日シュンのおべんと食べれるようになるわよ」
月香の言葉に、風人と花香がしょんぼりする。
4歳になったばかりの風人と花香にとって、7年という月日はこれまで自分が生きて過ごしてきた人生よりもはるかに長いものである。
7年も待っていたら、それこそおじーさんとおばーさんになってしまうような気がしたのだ。
「あ、その前に秋の遠足があるだろ。あと6つ眠ればいいんだ、確か。今度の日曜だから」
「そうそう。春のときみたいに、シュンがまた可愛いおべんと作ってくれるわよ。ひまわりのお寿司とか、お花畑のサンドイッチとか」

肩を落とした弟妹の気を引きたたせるのも、心優しい兄と姉の務めである。
極めて単純かつ素直にできている双子の心は、兄と姉の言葉を聞いてスピーディかつイージーに浮上した。
「あと6つだね、おにーちゃん」
「あと6つよね、おねーちゃん」
にっこり笑ってそう言うと、二人はグラスに残っていたオレンジジュースを、これまた同タイミングで飲みほした。

「僕、幼稚園バッグ取ってくる」
「私も幼稚園バッグ取ってくる」
「じゃ、一緒に取りに行こ♪」
「うん。一緒に取りに行こ♪」
互いにこっくり頷き合うと、何をするのも一緒の二人がしっかり手を繋ぎ、ダイニングを出ていく。
目を細めて愛くるしい双子を見送った月香は、ダイニングテーブルに片肘をつくと、爽やかな朝にふさわしからぬ溜め息を一つついた。

「いいなー、ふーちゃんとはなちゃんは。誰がどっから見ても滅茶可愛くてさ。私もシュンの方に似たかったなー」
この家の構成員以外の人間が聞いたら、なんという贅沢な悩みだと、憤りすら感じたに違いない。
風人と花香が誰もが目を細める愛くるしさの持ち主なら、雪人と月香は誰もが目を見張る美貌の持ち主なのだ。

「俺は別に不便はないぞ。この顔を貼っつけているおかげで、女にはモテている……らしい」
「大勢にモテたって意味ないじゃん。せいぜいバレンタインデーにチョコがたくさん送られてきて、ふーちゃんとはなちゃんを喜ばせられるだけでさ。私はね、シュンにとってのヒョーガ、ヒョーガにとってのシュンみたいな人に巡り会いたいの。なのに、この顔貼っつけてるおかげで、ガッコの男どもは近寄ってこないし、誰かに声かけられると決まってモデルや芸能プロダクションのスカウトだし」

それはそれで、同年代の少女からすれば羨ましい話ではある。
だが、それが日常茶飯事の月香には、有り難みも何もまるでないことだった。
「ま、確かに中等部のガキごときには近寄り難い見てくれだろうな、おまえのそれは。そう……だな、シュンに似てれば――どれだけ常軌を逸して可愛くても、近寄り難さはないか……」
雪人的には、毎年送られてくるチョコレートの数だけ女にまとわりつかれた時のことを想像すると、氷河似の近寄り難い面差しには、運命の神の好意すら覚えるところだった。
が、月香はまだ中一の女の子である。
外見の卓抜さとは裏腹に、心情面では他人にちやほやされてみたいという他の女の子たちと同じような願望があるのかもしれない。
あるいは人並みに“彼氏”というモノを従えていたいという見えが。

常軌を逸した容貌とは裏腹に、実に平凡な少女らしい望み――ではある。
雪人は、しかし、いつの日にかその願いの叶う日が妹のもとに訪れることを祈ってやることしかできなかった。






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