「瞬……」
一輝の言った通り、瞬はそこにいた。
白く染まった庭に面したテラスを臨む窓の前に立つ瞬の頬は、無分別な男の身を案じて、当の無分別男より青ざめていた。
ドアの前に氷河の姿を見いだして、安堵のあまり零れ落ちそうになった涙を、無理に瞳の奥に押しやる。
それから、瞬は、わざと突き放すような口調で氷河に尋ねてきた。

「どこまで捜しに行ってたの」
「……港」
「僕がアンドロメダ島にまで逃げ出すとでも思ったの。馬鹿みたい。僕がそんなことするはずないじゃない。兄さんが、ここにいるのに」
「……」
挑発としか思えない瞬の言葉に、氷河は何も反駁しなかった。
瞬が自分を気遣って、すぐにでも無思慮な男の側に駆け寄りたいのを我慢していることは容易に見てとれたし、今朝のように口を滑らせて、また瞬を傷つける言葉を吐き出してしまうことは避けたかったのだ。

「……ふぅん。頭が冷えたから? 少しは利口になったみたい」
「悪かった」
きつい口調を裏切っている瞬の切なげな眼差しに、氷河は素直に頭を垂れた。
「そーだよ! 氷河が悪いの! 氷河は僕にひどいことを言ったんだ!」
「そうだ」
「雪の中、何時間も外を走りまわされることになっても自業自得なの!」
「ああ」
「誕生日が目茶苦茶のぐちゃぐちゃの最悪の日になったって、仕方がないの!」
氷河は、それにも無言で頷いた。

それ以上耐えることができなくなったのか、瞬が氷河の側に歩み寄ってくる。
気持ちが急いているのか、それとも、氷河に近付くのを怖れているのか、速いとも遅いとも判別のしにくい足取りだった。
もしかしたら、そのどちらでもあったのかもしれない。
氷河の前まで来た瞬が、その手のひらで、そっと氷河の頬に触れる。
「髪も服もびしょぬれで、頬も手も凍えきってかわいそうに……なんて、僕が思ってあげる必要なんかないんだからっっ !! 」

まるで小さな悲鳴のようにそう叫ぶ瞬を、氷河は力いっぱい抱きしめた。
「その通りだ」
瞬の身体は、窓を通して伝わってくる外気のせいではなく、無分別男の身を案じる心のせいで、冷たく冷えていた。
そして、温かかった。
「みんな、俺が悪い」
濡れた衣服のままの氷河に抱きしめられ、髪に唇を押し当てられて、瞬の声が涙を帯びてくる。

「もっと早く諦めて帰ってくると思うじゃない! 僕、こんな夜遅くまでいられる場所なんて、ここしか知らないんだから! 年に一度の誕生日に、こんな夜遅くまで氷河に外を走りまわらせてたなんて、僕の後味が悪いじゃない! こんなに冷たくなっちゃって……!」
責めるような瞬の嗚咽に、氷河は、自分がまた愚かなことをしてしまったのだということに気付いた。
氷河は、身体にも心にも傷を負うようなことをしてはいけなかったのだ。
氷河の負う傷は、瞬の心をも傷つけるものなのだから。

「心配させたんだな? すまん。もっと早く帰ってくればよかった」
「そーだよ! 氷河って、もう少し利口だと思ってたのに!」
「そうだな……。馬鹿だ、俺は、本当に。……良かった。おまえが無事でいてくれて」
「……」
ここまで素直に出られると、瞬にも、意固地な態度を維持することが難しくなってくる。
軽いお仕置きをするつもりではいたが、氷河をここまで翻弄するつもりは、瞬には全くなかったのだ。

「――ごめんね、氷河。せっかくの誕生日、目茶苦茶にしちゃった……」
氷河の背にまわした手に、瞬がぎゅっと力を込める。
どうやら瞬の許しを得ることができたらしいと知った氷河の、それまで硬く強張っていた表情は、僅かに和らいだ。
「俺の生まれた日に、大した意味があるわけじゃない。俺の誕生日は、おまえに初めて会った日だ」
「え?」
「いや、アンドロメダ島から帰ってきたおまえに再会した日かな」
「氷河、なに言ってるの?」

氷河の胸に埋めていた顔をあげた瞬の視線を捉え、氷河が薄く微笑する。
「俺がこの世に生まれ落ちた日は、今の俺にはあまり意味がないってことだ。俺が今の俺なのは、おまえに会えたからだからな」
「氷河……」
氷河の言葉に、瞬は少なからず心を揺さぶられた。
そして、その瞳は感動の涙に潤み始めていたのだが。
氷河の、続くセリフがいけなかった。

「いっそ、おまえと初めて寝た日でもいいぞ」
そのセリフを氷河が言い終わらないうちに、瞬の生身の拳が氷河の腹に繰り出される。
「それ、氷河の誕生日だったじゃない!」
つい先程までの愛と感動の抱擁シーンはどこへやら、瞬の頬は怒りと恥ずかしさのために真っ赤になっていた。
「CDに傷がついていて、第18変奏が繰り返しかかっていたな」
「へー、憶えてるんだ! CDの傷を消す方法を知ってるなんて嘘ついて人の部屋に押しかけてきたと思ったら、急に態度変えて、僕にあんなひどいことしたの!」

必死になって金髪の暴走男の腕から逃れようともがく瞬を、氷河は苦笑しながら、自分の腕の中で遊ばせていた。
そうしていることを瞬がどれほど嫌がってみせようと、今は瞬を離す気にはなれなかった。
――瞬を捜して目的を果たせないまま帰宅した氷河の耳に、一輝の部屋から聞こえてきた第18変奏。
まさか瞬が本当に兄と?――と、胸をよぎった悪い想像に、自分がどれほど衝撃を受け、戦慄したか。
聞こえてきてはいけない場所から聞こえてきた第18変奏のせいで、自分がどれほどひどいことを瞬に言ってしまったのかを、今更ながらに認識した氷河だったのだ。

そして。
今ここに――兄の側にではなく、自分の前に――いてくれる瞬に、どれほど感謝しているか。
つんと横を向いている瞬が、氷河は可愛くて仕方がなかった。
「しばらく刷り込み状態だったな。あの曲を聞くたび、あの時のおまえを思い出して」
つい口許がにやけてしまったのが、瞬の癇に障ったらしい。
「僕、もう、一生、氷河の前ではこの曲聞かない!」
すっかり臍を曲げてしまった瞬を横目に、氷河は、瞬のその宣言を無効にする行動に出た。
一輝から返されたCDをプレイヤーにセットし、スイッチを入れる。
間もなく、囁くようなピアノの旋律が、深夜の真冬の部屋に静かに降り積もり始めた。

それは、ほんの3分ほどの短い曲だった。
繊細で美しい静かな調べは徐々に熱情を帯び、やがてそれは一気に感情の迸るコン・フォーコ部分へと向かっていく。
それは瞬そのもの。
もし瞬の姿を一つの楽曲に例えることになったら、この曲こそが瞬だろうと思えるように、優しく強く心を震わす調べ――。

冷たく降りしきる雪の音は、もう聞こえてはこなかった。
「今じゃ、その逆だ。おまえを抱くたび、この曲が聞こえてくる」
実に全く、氷河は懲りることを知らない男である。
「氷河〜〜っっ !! 」
冥界の最底辺から這い上がってくるような瞬の非難を、氷河はその唇で遮った。

「許してくれ。もう決してあんなことは言わない」
「……」
下手に出ることを覚えてしまった男は、はっきり言って質が悪い。
氷河の謝罪に負けた格好で、瞬はすとんと肩から力を抜いた。
こんな小狡い男を好きになってしまった自分が悪いのだという諦めの感情に浸りつつ、氷河の腕の中で、本当なら昨日のうちに言うはずだった言葉を小さな声で告げる。
「誕生日おめでとう、氷河」


雪と氷の聖闘士が、己れの生に意味を持たせてくれる存在の大切さを見いだした真冬の誕生日。
第18変奏のきらめくように美しい旋律が、室内を満たしていた。






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