「そりゃあ、母親なんだから、我が身を捨てて我が子を庇うのは当然だろう。おまえの母親だって……」
「こんな子供に庇われる俺の身にもなれ」
氷河は、紫龍の言葉の先を低く怒鳴るような声で遮った。
暴漢の件の経緯を知らされても、紫龍は少しも慌てた様子は見せなかった。
彼は、瞬の行動をロボットなら当然のことと考えていたのだろう。
紫龍はむしろ、瞬に保身の技と自分の意思を持たせることはできないものかと言い出してきた氷河の方を面白がっていた。

「母親モードから恋人モードにしてやろうか」
笑いながら提案してくる紫龍を、氷河はぎろりと睨みつけた。
「つい昨日まで母親だったものを、恋人として受け入れられるものか」
「ディドロが、書いているぞ。『野育ちの子供がそのまま放っておかれて、理性の乏しい30男に成長したら、そいつは父親の首を捻じ曲げて母親と寝るかもしれない』とな」
「俺は30になっていない」
「くだらん異議を申し立てるな。どうせ、母親としてなんか見ていなかったくせに」
「俺は女には不自由していない」
「恋人には不自由してるだろう、おまえには、おまえの恋人だと自称する女しかいない。おまえが恋人だと思っているような女は一人もいないんだから」
「……」

図星をさされて、氷河は咄嗟に反駁の言葉が思い浮かばなかった。
「どうだ、瞬。氷河の恋人役というのは」
紫龍は、勝手に話を進めていく。
紫龍に尋ねられた瞬は、ぽっと頬を赤らめた。
こういう反応は、人間と同じようにできるのに、その答えは、
「氷河が望むのなら」
――である。

「もちろん望むさ。こいつも、いー加減、母親の恋しい歳じゃないんだし」
「いいだろう」
自嘲気味に、氷河は唇の端を歪めてみせた。
「……母親になっても、恋人になっても、大して変わらないんだろう。俺が望むなら、俺が望むなら――瞬の言うことはそれだけだ」
「他に何を求めるんだ。これまでのおまえがそうだったじゃないか。おまえ、他人に服従以外の何かを求めたことがあるか?」
ずけずけと遠慮もなく事実を口にする男ほど、うざったいものはない。

うざったい男は、それから瞬の耳の後ろをちょこちょこといじり始め、数分後には、
「これで瞬はおまえの可愛い子猫ちゃんだ」
と言ってのけた。 
あげく、その帰りがけ、紫龍は、ひそりと氷河に耳打ちしてきたのである。
「瞬とは寝ることもできるぞ。瞬の身体は何もかも人間と同じにできている」
馬鹿げた話だと、氷河は笑い飛ばそうとしたのである。
だが、氷河はそうすることができなかった。
紫龍の言に乗ろうとしたからではない。

「……俺が望むなら、か」
そんな相手と寝る気はないのだと、言外に告げる。
氷河の真意が伝わっているのかいないのか、紫龍はふざけた言葉を重ねてきた。
「完璧な恋人だから、無論、おまえを焦らすこともあるかもしれんがな」
片目をつぶってみせてから、氷河の家を辞していく自称天才の背中に、氷河は忌々しげに舌打ちをしたのだった。


「で、何が変わったんだ」
紫龍の姿が客間から消え、“恋人”と二人きりになると、氷河は瞬に尋ねた。
「何も。母親の愛も恋人の愛も本質は同じですから」
「その本質ってのは何だ」
「氷河の幸せを願うことです」
「俺はおまえを見ていると不愉快になる。あっちへ行け」

そんな言葉を投げつけたくはない。投げつけたくはないのである。
だが、氷河には、そうせずにいられない自分自身をどうすることもできなかった。
瞬の答えは、彼が氷河の“恋人”になっても変わらなかった。
「……氷河がそう望むなら」






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