YOURS EVER






 団子村は平和な村です。
 この世にこれほど平和でのどかな村があるものかと思えるほどに、平和な村です。
 住人たちは、そのふくよかな外見の通り 概ね穏やかな気性の持ち主で、特に大きな いさかいも起こさず、互いに助け合って仲良く暮らしています。
 ですが、そこに生きている者が心というものを有している限り、平和な村の住人が毎日穏やかで満ち足りているとは限らないのです。

 ある日、村の外れの森の中で、団子瞬は猫の鳴き声を聞きました。
 声は、森の中でいちばん古い樫の木の根方から聞こえてきます。
 でも、この森には猫はいないはず。
 不思議に思った団子瞬が声のする方に近寄っていってみますと、そこにいたのは猫ではなく、なんと生まれたばかりの人間の赤ん坊。団子瞬が猫の鳴き声と思ったのは、人間の赤ちゃんの泣き声だったのです。
 樫の木の根方のウロに、まるで誰かの忘れ物のようにぽつんと取り残されて、赤ん坊は心細げに泣いていました。赤ん坊は既に相当長い時間、ひとりでここで泣いていたに違いありません。その声は、見捨てられた子猫のように細く力無いものでした。
 顔立ちはとても整っています。
 闇のような色の髪、涙をたたえている瞳も闇の色。肌の色は白いのですが、主にパステルカラーでできている団子村の雰囲気にそぐわないこと甚だしい人間の赤ちゃん。
 いったいなぜ、誰が、どうして、こんな寂しい場所に赤ちゃんを置き去りにすることになったのでしょう? 誰かが捨てていったのでしょうか?
 でも、それにしては、赤ん坊の身体を包んでいるのはとても上等の産着で、胸には高価そうなペンダントも輝いています。昔話によくあるように、貧しいきこりの夫婦が食べるに困り、泣く泣く子供を捨てていった――というようなことではないようでした。
 いずれにしても、このままこの場所に放っておかれたら、この赤ん坊はきっと死んでしまいます。いつかは団子村の住人の倍も大きくなるに違いない人間でも、今は、愛と食べ物を与えてくれる誰かを待つだけの無力な赤ん坊なのですから。
 団子瞬はもちろん、その赤ん坊を両手でしっかり抱きかかえて、団子氷河の待つ家に帰りました。


 山羊の乳は人間の赤ん坊には濃厚すぎるようでした。
 少し薄めて温めて、村の雑貨屋さんで買ってきた哺乳瓶に そのミルクを入れ、小さな口にふくませて――赤ん坊がそれを飲んでくれた時、団子瞬がどれほど喜んだことか。
 この赤ん坊は、その小さな身体の中に、生きる意思と生きる力をちゃんと宿しているのです。
 おなかがいっぱいになると、赤ん坊は今度はおねむ。
 冬場に使っていたソリに毛布を敷いた即席のベビーベッドで、彼は(赤ん坊は男の子でした)すやすやと心地良さそうに眠りについたのです。
 そんな赤ん坊を見詰めている――睨んでいる――団子氷河は、明らかに不機嫌でした。
「人間の赤ん坊だぞ。こいつはすぐに俺たちより大きくなって、世話も難しくなる。この家にだって入りきらなくなるぞ。人間の赤ん坊を育てるということは、俺たちには巨人を育てるようなものだ。これが凶暴な怪獣にならないと、誰に言える!」
 どこで生まれた誰の子なのか、なぜ団子村に捨てられていたのか、そんなこともわからない赤ん坊です。自分で歩くことも食べ物を手に入れることもできず、生きるための作業をすべて他人に頼らなければならない生まれたばかりの赤ん坊。ここで団子瞬が彼を見捨てたなら、おそらくこの赤ん坊は早晩命を落とすことになるでしょう。
 団子瞬が自分以外の誰かにかまけていることは とても不愉快なのに、団子氷河は団子瞬に、無力な赤ん坊を見捨てろと言うことができません。そのジレンマが、団子氷河に、赤ん坊の悪口を言わせていました。
「こんな不吉な色の目をした子供は初めてだ。滅多に人の行かない場所に捨てられていたのは、この赤ん坊が悪魔の子だからに違いない」
「そんなことないよ。この子はとても澄んで綺麗な目をしてるもの」
「悪魔ってのは、純粋な悪でできている。悪魔の目は澄んでいるもんなんだ」
「僕たちが育てれば、たとえ悪魔の子だったとしても、この子が悪魔になったりするはずがないよ」
 団子瞬はすっかりその気――自分(たち)が、この不吉な捨て子を育てる気――になっています。
 団子氷河には、けれど、それはとんでもないことでした。
 団子が人間を育てるなんて。団子瞬との二人きりの甘い生活を、他の誰かに邪魔されるなんて。
 そんなことはありえることではありませんし、あってはいけないことなのです。
 だから――団子氷河は急いで、眠っている赤ん坊が身に着けているものを確かめ始めました。
 悪魔でも天使でも、そんなことはどうだって構いません。とにかく、身元を確認できるものを見付けて、赤ん坊を母親か親族の許に返すのが、人の道・団子の道。この赤ん坊にとっても、それがいちばんいいことであるに違いないのです。
 が、残念ながら、団子瞬が拾ってきた赤ん坊は、身元がわかるようなものは何も身に着けていませんでした。産着には名前の刺繍もなく、捨てた者からのメッセージもありません。
 産着の他には、『YOURS EVER――永遠にあなたのもの』という文字が刻まれたペンダントをひとつしているだけ。
 これでは、この子の母親が何者なのかもわかりません。
「ユアーズ・エバー? じゃ、この子の名前、エバちゃんにしよう」
 求めるものを見付けられず、がっくりと両の肩を落とした団子氷河に、団子瞬は嬉しそうにそう言ったのでした。


 その日から、平和で穏やかだった団子氷河と団子瞬の家は戦乱の巷と化したのです。
 団子氷河は、自分が『不機嫌』などという生易しい状態ではいられないほどの危機的状況に追い込まれたことを、その夜のうちに思い知ることになりました。
 なにしろ赤ん坊は、食べることと眠ることと泣くことが仕事。エバはとても勤勉な赤ん坊らしく、毎日毎日夜と言わず昼と言わず、二時間おきくらいに、それはそれは元気な声で泣くのです。
 団子氷河と団子瞬はおちおち眠ってもいられません。夜中に何度も赤ん坊の泣き声で叩き起こされ、そのたびに、おしめのミルクのと、慣れない育児にてんてこまい。
 これでは、団子氷河のご機嫌は不機嫌どころではすみません。
 団子氷河が団子瞬にキスしようとすると、まるでそのタイミングを見計らったように大声で泣き出して、その手から団子瞬を奪っていく赤ん坊を、どうして彼が憎まずにいられるでしょう。
 ――赤ん坊というものが、これほど手のかかるものだったとは!
 理由もなくぐずり、むずかり、すぐに熱を出す上に、二人の甘い生活をムードも何もない無粋な生活に一転させる おしめの世話。生まれてすぐにトイレの場所を覚える犬猫の方がずっとましというものです。
「泣くな、うるさい! 泣いたってわからん! 言いたいことがあるなら、他人にわかる言葉で言え、言葉で!」
 今日も今日とて、朝日が昇るなり ニワトリより早く けたたましい声で泣き出したエバに、団子氷河がエバに負けないほどの大声で癇癪を爆発させます。そんなことをしたら、赤ん坊はますます激しく泣き叫ぶだけなのに、それはわかっているのに、団子氷河は他に自分の苛立ちをぶつける対象を見つけることができないのでした。
 団子瞬がエバを抱き上げ、団子氷河を困ったように見詰めます。
「氷河、赤ちゃんはね、自分の言いたいことを言葉にできないから泣くんだよ」
 そんなふうに、団子瞬がどんな時にも赤ん坊を庇うので、氷河の不機嫌はますます増大していくのです。
 団子氷河の不機嫌がどれほどのものかというと、エバを懸命にあやしている団子瞬に、
「泣き虫同士で気が合うわけだ」
と、皮肉を言うくらい。
 これは重症です。
「僕が泣いている時、氷河は言葉にしなくてもわかってくれるじゃない。どうしてエバちゃんは――」
「それはおまえだからだ! こんな正体不明の、悪魔かもしれないようなモノの気持ちなんか、悪魔にしかわからん!」
 こんなに綺麗な赤ちゃんを悪魔呼ばわりできるなんて。団子瞬は、団子氷河の視力がとても心配でした。
「僕だとどうしてわかるの」
「……俺がおまえを好きだからだ」
 団子瞬は、なぜそんなわかりきったことを訊いてくるのでしょう。好きだから、いつもその姿を目で追って、言葉を聞いて、その気持ちを考えて――そうしたら、大好きな人が何を考えているのかは、自然に察することができるようになるものです。
 なぜそんなわかりきったことを団子瞬が訊いてきたのか――を、すぐに団子氷河は知ることになりました。
 その愚問は、つまり、
「じゃあ、氷河もエバちゃんを好きになって。そうすれば氷河もエバちゃんの気持ちがわかるようになるから」
という言葉を言うためだったのです。
 そんな手に乗って、優しいパパになることなどできるものではありません。
 団子瞬の提案を、団子氷河は、
「こんな可愛げのないもの、好きになれるか!」
の一言で一蹴しました。
 途端に、エバがまた大きな声で泣き出します。
「ああ、また!」
 本当にいらつく赤ん坊です。
 団子氷河の苛立ちは更に増すことになり、そうなっても団子瞬が庇うのはエバの方。
「氷河がひどいこと言うからだよ」
「俺が何を言ったって、赤ん坊にわかるはずがないだろう」
「わかるよ。赤ちゃんは多分、そういうことだけはわかるんだ」
 団子瞬が赤ん坊の気持ちを確信をもって語るのは、団子瞬がエバを好きでいるからなのでしょう。
 氷河はむすっとした顔になって、唇をへの字に歪めました。

 腹を立てた団子氷河は、自分が掛けていた椅子の向きを変えました。うるさくて憎たらしい赤ん坊の姿を見なくて済むように。そして、壁に向かって文句を言いました。
「赤ん坊が純真で無邪気だなんて、どこの馬鹿が言い出したんだ。こいつは悪魔そのものじゃないか!」
 赤ん坊は、そんな義理もないのに世話をしてやっている者の生活を乱し、気分を苛立たせ、求めるばかり。
 求めるだけなら、団子氷河もまだ我慢ができましたが、エバは奪うこともするのです。瞬と過ごす幸せな時間も、瞬の愛情も、団子氷河はエバに奪われ続けていました。
 エバがこの家にやってくるまで、団子瞬はただ団子氷河のためだけに笑い、泣き、怒り、生きていてくれたのに。
「うん、その見解は僕も間違ってると思うけど」
「初めて意見が一致したな」
 思いがけず賛同を得られたことに少なからず驚いて、団子氷河は視線だけ団子瞬の方へと巡らせました。
「赤ちゃんはね、時間の区別がつかないの。過去とか未来とかの概念がなくて、あるのは『今』だけ」
 両手でエバを抱いている団子瞬が、団子氷河ではなくエバの顔を覗き込みながら言います。
「自分と他人の区別だってつかないんだよ。だから、自分が苦しい時には自分が悪いの。そう感じるの。誰かのせいだなんて考えない。赤ちゃんは、自分が罪人だと感じて泣くんだ」
「……」
「だからね、赤ちゃんが泣いてたら、抱きしめてあげなきゃならないの。君は悪くない、君は愛されてる、世界は君を受け入れてる――って、教えてあげなくちゃならないんだ。そうしてあげないと、赤ちゃんは不安で生きていけないんだよ」
「……」
 団子瞬は、そうできない者を責めているのでしょうか。
 団子氷河の口調は、つい皮肉なものになりました。
「随分詳しいんだな」
「そりゃあ」
 やっと眠ってくれたエバをソリのベッドに戻すと、やっと団子瞬の視線が団子氷河の方に向けられます。団子氷河が腰掛けているソファの隣りにやってきた団子瞬は、それこそ赤ん坊をあやすような口調で団子氷河に尋ねてきました。
「さあ、氷河も機嫌直して。どうしたら機嫌直してくれるの」
「……」
 赤ん坊を捨ててきたら。
 以前のように団子瞬が自分だけを見詰めてくれるようになったなら。
 その二つの望みが叶いさえすれば、団子氷河は機嫌を直すことができました。それはわかっていました。
 けれど、今ではすっかりエバに夢中の団子瞬に、そんなことを言えるわけがありません。
 だから、団子氷河は無言でいたのです。
「困った氷河。泣いて訴えるエバちゃんの方がずっと素直なんだから」
 そう言って苦笑して、団子瞬は掛けていたソファから立ち上がりました。そしてそのまま、キッチンに入っていってしまいました。
「俺が素直になったら、おまえはもっと困ることになるだろう」
 たった今まで団子瞬がいた場所に向かって、団子氷河は低く呟いたのでした。


 それからも団子瞬はエバにつきっきりでした。団子氷河の相手は、エバの世話の合間に片手間にしているようなもの。
 団子氷河の不機嫌はすっかり常態になり、そして、団子氷河はどうしてもその赤ん坊を可愛いと思うことができないのでした。

 エバが団子氷河と団子瞬の家にやってきて半月後のある日。団子瞬は、毎年恒例の薬草摘みのために村の東の外れにある野原に出掛けていくことになりました。
 団子村では毎年一回、この季節に丸一日かけて、村の家々の親睦を深めるためのレクリエーションと実益を兼ねたイベントが行なわれるのです。イベントには、一つの家から一人以上の参加がお約束。団子氷河はヨモギとタンポポの区別もつかないくらい、そういうことが苦手でしたので、それは毎年団子瞬の役目だったのです。
「一緒に連れていきたいけど、エバちゃんは重いから……。夕方には帰ってくるから、それまでエバちゃんをお願いね。おしめもミルクもわかるよね?」
 団子氷河は、そんなことをわかりたくてわかったわけではありません。わからないと、瞬が他の用事で手を離せない時、喉も裂けるような赤ん坊の泣き声を聞き続ける羽目になってしまうので、嫌々ながらに覚えたのです。
 薬草を入れる籠を手にして、野原に出掛けていこうとしている団子瞬に、団子氷河は皮肉めいた口調で言いました。
「俺とエバを二人きりにしておくと、俺はエバを殺すかもしれないぞ」
「氷河はそんなことしないよ」
「なぜそう思う」
「わかるよ」
 団子氷河自身は、本当にそんなことをしかねない自分が不安ですらあったのに、団子瞬は全くそんな心配はしていないようでした。
 団子瞬は、そして、団子氷河とエバを家に残し、にこにこ笑いながら薬草摘みに出掛けていってしまったのです。


 赤ん坊というものは絶対に悪意だけでできていると、団子氷河は思いました。
 だって、団子瞬が「行ってきます」と言って家を出ていくまではすやすや眠っていたエバが、団子瞬の姿が部屋の窓から見えなくなった途端、天井が落ちてくるのではないかと思うほどの大声で泣き出したのですから。悪意で泣いているのでなかったら、エバは生まれながらの悪魔だと、団子氷河は思ったのです。
「やかましい! 少しは我慢しろ」
 怒鳴るともっと泣くことがわかっているのに、団子氷河は怒鳴らずにはいられません。特に今日は、家の中に団子瞬がいませんでしたから、怒鳴り声にも遠慮がありません。
 もっとも、泣き声と怒声の戦いほど空しい戦いもないことは、団子氷河はこの半月の間に学習済みでしたから、やがて彼は掛けていた椅子からしぶしぶ立ち上がり、エバが寝かせられているソリのベッドに歩み寄っていくことになりました。泣きわめく赤ん坊には、本物の悪魔だって勝てないに違いありません。
 お腹が減ってるのか、おしめが濡れているのか――。そのどちらかだということは、団子氷河にもわかっていました。赤ん坊が泣く理由など、他には何もないのです。
 エバのおしめはまだ無事でした。ということは、エバはおなかが減っているのです。
 ミルクは団子瞬が準備しておいてくれました。それを人肌に温めて、団子氷河は哺乳瓶をエバの口に突っ込みました。
 ところが。
 おなかがすいているはずのエバが、そのミルクを一向に飲もうとしないのです。いつもだったら、こういう時、息をすることも忘れているではないかと思うような勢いでミルクを飲むエバが、小さな手で哺乳瓶を脇に押しやって、ただただ泣き続けるのです。
「俺がおまえを嫌ってるから泣いてるのか。それとも、俺が飲ませるミルクには毒が入っていると疑っているのか」
 団子氷河が冷ややかにそう言うと、エバの鳴き声はひときわ大きくなりました。
「ああ、そうだ。俺はおまえが大きら……」
 そう言いかけて初めて、団子氷河は、エバの様子が普段と違うことに気付いたのです。
 エバは顔が真っ赤でした。いつもはほっぺただけがほんのりピンク色のエバの顔が、額から首筋まで真っ赤に染まっているのです。もともと肌が白いだけに、その異常は鮮明でした。
「ひ……冷やせばいいのか……?」
 団子氷河は慌てて洗面所に飛び込み、ボウルとタオルを手に取ってエバの許に戻ろうとしました。
 でも、その時、団子氷河の胸に ふっとある考えが浮かんできたのです。
 熱を冷ます振りを装って、あの悪魔の子を凍りつかせてしまったらどうなるだろう――という考えが。
 熱を下げるためにしたのだと言い張れば、団子瞬だって団子氷河の不手際を一方的に責めることはできないはずです。いいえ、そんな危険なことをしなくても、発熱に気付かなかった振りをして、このまま放っておけば赤ん坊は、もしかしたら――。
 もしそうなったら、この家には元の二人だけの生活が戻ってきます。そうしたい時に、瞬にキスのできる日々が戻ってくるのです。
 その時、悪魔のような目をしていたのは、エバではなく団子氷河だったのかもしれません。
 けれど、団子氷河は、突然身の内に湧き起こってきた悪魔のようなその考えを 実行に移すことはできませんでした。
 当然でしょう。そんなことをして、もしエバが死んでしまったら、きっと団子瞬は泣く――のです。
 泣いて泣いて何日も泣いて、団子氷河のキスくらいでは、その涙を止めることはできないに違いありません。
 そんな事態を、団子氷河は受け入れることができませんでした。
『俺とエバを二人きりにしておくと、俺はエバを殺すかもしれないぞ』
『氷河はそんなことしないよ』
『なぜそう思う』
『わかるよ』
 団子瞬は、最初からわかっていたのでしょう。
 団子瞬のために、団子瞬を悲しませないために、団子氷河がどんな危険からもエバを守ってくれるということが。
 その信頼を裏切ることが、団子氷河にできるはずがありません。
 団子氷河は団子瞬が好きでしたから。団子瞬が本当に大好きでしたから。
 団子瞬がたとえ他の誰かを見詰めていても、自分を見詰めてくれていなくても、団子瞬が笑っていてくれるなら それでいいと思えるほどに、団子氷河は団子瞬を愛していたのです。
「くそっ!」
 団子氷河は舌打ちをして、洗面ボウルに水を張り、その中に冷蔵庫の氷を投げ入れて、エバの許に戻りました。そして、冷たいタオルをエバの額に乗せました。
 赤ん坊は、とてもデリケートで頼りない生き物です。熱を下げるためにでも冷やしすぎは危険。それくらいのことは団子氷河にもわかりました。
 熱を出した赤ん坊の世話は、細心の注意を払って行なわなければならないのです。
 その頼りない生き物は、頬を赤く染めて喉の奥から間歇的に苦しそうな息を吐いています。エバはもう、泣き声をあげることすらできなくなってしまったようでした。小さな手で何かを掴もうとするかのように、その指だけが閉じたり開いたりを繰り返しています。
 けれど、彼が求めている団子瞬の手は、今はここにはないのです。
 瞬が愛している、瞬が拾ってきた赤ん坊。
 悪魔の子かもしれないと思ったこともありました。
 事実、エバは、団子氷河には悪魔以外の何ものでもありませんでした。今だってそうです。
 でも、エバは、瞬が愛しているもの。みすみす死なせてしまうわけにはいかないではありませんか。

 冷たいタオルを100回替えても、エバの熱は下がりませんでした。太陽が中天に至り、徐々に西に傾き始めても、エバの顔は真っ赤なまま。
 団子氷河の焦りは募るばかりです。
「馬鹿野郎っ、下がれーっ!」
 怒鳴ってもどうなるものでもありませんが、団子氷河は怒鳴らずにはいられませんでした。
「おまえがどうにかなったら、瞬が泣くんだっ!」
 小さな身体で必死に戦っているエバのためにできることが、額のタオルを替えることだけだなんて、大人というものは何て無力な存在でしょう。
 こんなに苛立たしく腹立たしいことはありません。エバの泣き声に団子瞬とのキスを邪魔される時よりも、団子氷河は自分の無力を恨めしく思ったのです。
 それから更に苦闘数時間。
 夕方近くになって、エバの熱はゃっと下がってきました。命がけの戦いを戦い抜いたエバがミルクを飲みだした時には、団子氷河は心底からほっとしたのです。
 そして、団子氷河は思わずエバを抱きしめました。――初めて抱きしめました。
 エバは瞬のようにやわらかく、瞬のように温かく――身にまとっている空気も、どこか瞬に似ていました。悪魔のようだと思っていた赤ん坊なのに、エバの澄んだ瞳は団子瞬のそれと同じでした。


「遅くなってごめんね。今年の我が家は3人だから、3人分の薬草を――」
 お日様が半分ほど山の向こうに沈みかけた頃、カラだった籠を薬草でいっぱいにして、団子瞬は家に帰ってきました。
 庭の垣根の向こうに団子氷河の姿を認めた団子瞬が、小走りに門の方にまわります。
 そして、我が家の庭に足を踏み入れた団子瞬は、そこで思いがけないものを見ることになったのです。団子氷河がエバをおんぶして、ベビーベッドを作っている姿を。
 とんてんかんと木槌の音が響くたび、その音に合わせて、団子氷河の背中のエバがぱちぱちと手を叩いていました。
 仕事がしにくいでしょうに、氷河はそんなエバを怒鳴りもせずに――笑ってもいませんでしたが――、熱心に仕事を続けています。
 団子瞬は我知らず微笑んで、仕事中の二人の側に歩み寄っていきました。
 大仰に驚いた様子は見せずに――そんなことをしたら、団子氷河は臍を曲げてしまいかねませんからね――何気なく、団子氷河に尋ねます。
「重くない?」
 団子氷河は――団子氷河も――今朝方とあまり変わらない仏頂面で、仕事の手を休めずに答えてきました。
「離れていると、何かあった時に気付くのが遅れるんだ」
「そうだね。赤ちゃんからは目が離せないよね。ただいま、エバちゃん」
 団子氷河の背にいるエバの笑顔だけが、今朝より二倍も明るくなったようでした。


 団子瞬は団子氷河の変化がとても嬉しかったらしく、その日の夕食はご馳走でした。
 エバはまだミルクしか飲めませんでしたが。
「どうして?」
 『どうして二人は仲良くなれたのか』と最後まで言われなくても、もちろん団子氷河には団子瞬の言いたいことがわかりました。団子氷河は団子瞬が好きでしたから。
「あれは……おまえに似ている」
「え?」
「おまえに似ているものは愛すべきものだ」
 納得できるようなできないような――それはあまり論理的とは言えないような答えでしたが、団子瞬には団子氷河の言わんとしていることが、何となくわかりました。団子瞬は団子氷河が大好きでしたから。
 それに――。
「ねえ、僕がどうして赤ちゃんのことに詳しかったのか、教えてあげようか」
「?」
 それに、団子瞬がエバを好きな理由も、団子氷河のそれにちょっと似ていたのです。
「氷河が赤ちゃんに似てるから」
「俺のどこが」
「ほんとに欲しいものを、言葉で言えないとこ」
「む」
 それは、団子氷河が素直ではないと言っているようなものです。
 でも、昨日までの団子氷河は実際にそうでしたから、団子氷河は団子瞬に反論や弁解はしませんでした。代わりに、今の自分をアピールします。
「俺は言えるぞ」
「じゃ、言ってみて」
「キスしてくれ」
 団子瞬は団子氷河の素直さにびっくり。
 たった一日で団子氷河がこんなに素直になるなんて、いったい今日という日に 団子氷河の上に何が起きたというのでしょう。
 その出来事を知りたい気持ちはあったのですが、きっと団子氷河は話したがらないでしょうから――団子瞬は、その結果だけを認め受け入れることにしたのです。
「すごい。氷河がこんなに大人だったなんて」
「まあ、何だ。子供を育てるということは、一緒に自分も大人になることだと気付いた」
「素敵」
 団子瞬はもちろん、団子氷河のほしいものを彼にあげました。
 いつもなら、ここで決まって大声で泣きわめき始めるエバが、今夜はまるで二人の邪魔をしないよう気を遣っているみたいに静かでした。


 団子村の住人たちの上を流れる のんびりゆったりした時間と、人間たちの時間では、その進む速さが違います。
 それからたくさんの昼と夜が過ぎても、団子氷河と団子瞬はエバを拾った時と同じ姿でしたが、エバはどんどん大きくなっていきました。
 団子瞬の背を追い越し、団子氷河の背を追い越し、エバは今では、人間で言うなら18歳くらいの外見をした立派な青年です。
 もちろん、そうなるまでの間、三人の生活が何事もなく平穏無事だったわけではありません。
 彼等の家では、子供のいる家によくあるような出来事がたくさんたくさんありました。はらはらしたり、どきどきしたり、一緒に泣いたり笑ったり、時には喧嘩をしたことだってありました。
 団子サイズの家の中で、背が高くなったせいで窮屈そうに背中を丸めているエバを見兼ねた団子氷河が、天井が他の部屋の二倍も高いエバ用の部屋を増築する計画を立てた時には、エバは立派に団子氷河の手伝いができるようになっていて、団子氷河と団子瞬は、これまで三人で過ごしてきた時間をしみじみ思い返すことになったのです。
 エバは、心も身体も大人になりつつありました。


 ある日、黒い服を着た黒髪の人間の女性が団子村にやってきました。
 その女性は、村のあちこちで人間の捨て子の話を聞き込み、最後に団子氷河と団子瞬の家にやってきたようでした。
「ハーデス様を返してもらいにきた」
「ハーデス様?」
 『こんにちは』も言わずに唐突に、彼女は彼女の用件を団子氷河と団子瞬に突きつけてきました。
 詳しい事情説明は一切抜きでしたが、彼女が返還を求めているものが何なのかは、団子氷河と団子瞬にはすぐにわかりました。
「あなたは、エバちゃん――あの子のお母さん?」
「そなたたちの目には、いったい私が何歳に見えているのだ! まだ十代の可憐な美少女に、よくもそんなことを訊けたものだな、無礼者!」
 無礼なのは、どちらかというと、『こんにちは』も言わずに人の家にあがり込んできた彼女の方だと団子氷河たちは思ったのですが、二人は あえてその事実を指摘することはしませんでした。
 今はそんな些細なことを気にしている時ではないということが、二人にはひしひしと感じとれていたのです。彼女はエバが何者なのかを知っている人間なのだということが、二人にはわかっていたのです。
「あのお方の本当のお名前はハーデス様という。畏れ多くも冥界の王となられるお方だ」
「冥界?」
「罪を犯した者たちが、死後 裁きを受ける国だ」
「……」
 なんだかあまり楽しそうなところではありません。
 楽しいところではないから、彼女はその国の王様になるはずの者を団子村に捨てたのでしょうか。だとしたら、この無礼な自称十代の可憐な美少女は意外に優しい人間なのかもしれない――と、団子氷河と団子瞬は思いました。
 二人の好意的な解釈が間違いであることは、まもなく二人にもわかりましたが。
「冥界の王には情けや優しさがあってはならぬのじゃ。人を罰することにためらいを覚えることがあっては、神聖な義務の遂行の妨げになるからの。ハーデス様に立派な冥界の王になっていただくには、人間の冷酷や醜悪を身をもって知っていただくのがいちばんと考えた冥界の者たちは、幼いハーデス様を泣く泣く人間界に託すことをしたのだ。ハーデス様はいずこだ? さぞかし、冷ややかな目と心を持った美しい青年になられたことであろうの」
 『冷ややか』と『美しい』が、団子瞬の中ではどうしても一つに結びつきませんでした。団子瞬にとって『美しい』とは、春の花のように優しく、団子氷河の瞳のように温かいものでしたから。
 そしてエバは、団子瞬が思い描く通りの美しさを備えた人間に育っていました。
 団子瞬は、黒衣の自称十代の可憐な美少女の美的センスに少々不審感を抱くことになったのです。そして、彼女自身に対しても不気味なものを感じずにはいられませんでした。
 団子瞬は、彼女にエバを会わせたくありませんでした。
 でも、そういう時に限って、まるでタイミングを見計らったようにエバが帰ってきてしまったのは――これも運命というものなのでしょうか。団子瞬は、一瞬泣きたい気持ちになったのです。
「瞬ー、氷河ー。山ブドウの実をいっぱい取ってきたぞー」
 エバは玄関から家に入らず、庭にまわって窓から顔を覗かせ、それから今日の彼の仕事の成果を誇らしげに団子瞬に示してきました。
 エバが窓から差し入れた籠には、山ブドウの実がこぼれ落ちそうなほどたくさん入っています。
 その籠を団子瞬に手渡してから、エバは初めて、そこに団子瞬と団子氷河以外の誰かがいることに気付いたようでした。
「あれ、お客さん?」
「うん……」
 団子サイズの家の部屋の中に背中を丸めるようにして立っている自称十代の可憐な美少女。その姿を見れば、エバは、それが自分と同じ『人間』だということを、すぐに悟るでしょう。
 エバの反応を恐れて、団子瞬と団子氷河の表情は強張りました。
 エバは、自分以外の人間を見るのは、これが初めてでした。もろちん彼女が自分と同種族の者だということはエバにはすぐにわかったのですが、彼が彼女に全く親しみを感じなかったのもまた事実。
 そして、それは、自称十代の可憐な美少女も同じだったようなのです。
「な……何だ、この能天気な顔をした男子は?」
「これが僕たちのエバちゃんです。森の樫の木の根元で拾った――多分、あなたの言うハーデス様」
「こ……これが?」
 自称十代の可憐な美少女は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、エバを見詰めました。
 エバが、そんな彼女を見て、首をかしげます。
「瞬、氷河。この人、誰?」
「エバちゃんの――赤の他人みたい」
 彼女はエバの母親というわけでもなさそうでしたし、他に説明のしようがありません。団子瞬自身、彼女が何者なのか、彼女から何の説明も受けていませんでしたしね。
「ふうん? いらっしゃい。瞬、どう? たくさん取れただろ。ジャム作るの手伝うよ」
「うん。わあ、ほんとにたくさん。エバちゃん、ありがとう」
「瞬のために頑張ったんだ」
 団子瞬に礼を言われると、エバは得意げに胸を張り、嬉しそうに顔をほころばせました。ペルセウスにメデューサの首を見せられて石像になってしまったピネウスのように動かず、挨拶ひとつしてこない客のことなど、エバは気にとめてもいませんでした。
 が、自称十代の可憐な美少女の方はそうはいきません。
「これが……ハーデス様?」
 段々事情が飲み込めてきた彼女は、少しずつ思考と身体の自由を取り戻し始め、すっかり事情が飲み込めた途端に大パニックを起こしてしまったのです。
「どどどどどーして、いいいいいったい何がどーなれば、冥界の王としてお生まれになった高貴なお方が、こんな緊張感のない能天気な男子に育つのだーっ!」
「能天気だなんて! エバちゃんは、団子村の学校ではいつもいちばんの成績で、通知表の通信欄にはいつも『落ち着きがあって、面倒見のいい、思い遣りのある優しい子です』って書かれてたんですよ!」
 自慢の息子を能天気呼ばわりされては、いくらお客様が相手とはいえ、団子瞬も黙ってはいられません。珍しく強い口調で、団子瞬は、自称十代の可憐な美少女に反論していったのですが、彼女の耳には団子瞬の声など全く聞こえていないようでした。
「あああ、冥界は破滅だ。人類粛清の時も間近と、指折り数えてその日の到来を待っていたのに! 私が期待していたのは、人の世の無情を知り、冷徹に人間を罰することのできる冥界の王なのだぞ。それが手作りの山ブドウのジャムだと? 貧乏たらしい! 冥界の王なら、せめてフォションのビターオレンジジャムくらい食しているべきであろう! あああ、すべてはおしまいだっ!」
 大仰な演出のシェイクスピア劇の役者のように胸をかきむしり、髪を振り乱し、一人悲劇に酔い始めた自称十代の可憐な美少女に、団子瞬と団子氷河とエバはびっくり。三人は、ただただ呆然と、彼女のオーバーアクションの愁嘆場を見詰めていることしかできませんでした。
「ハーデス様。あなたは本当に、ご自分が何のために生まれてきたのか、それすら憶えていないというのですか……!」
 絶望的な響きを載せた彼女の訴えにも、エバは答えようがありませんでした。
 自分が何のために生まれてきたのか――エバは、これまでそんなことを考えたこともなかったのです。
 しいて言うなら、団子瞬の喜ぶ顔を見るため、団子氷河の仕事を手伝うため。それがエバの生きる目的にして務めでした。
 悲劇に酔いきった自称十代の可憐な美少女は、彼女に与えられた役を一通り演じ終えると、やがて舞台を下り、悄然とした様子で、いずこともなく姿を消してしまいました。

「何だったんだろう、あの人」
「さあ? 礼儀を知らない上に騒がしい女だったな。気にするな」
「そうそう、気にしなくていいよ。なんだか少しおかしな人だったもの。それよりエバちゃん、ジャム作るの手伝って」
 団子瞬はエバと別れずに済んだことに、団子氷河は瞬が泣くのを見ずに済んだことに、安堵の胸を撫でおろしていました。
 実は、団子瞬と団子氷河は、もうずっと長いこと、一つの恐れを抱いていました。いつかエバの肉親だという者が現れて、エバをどこかに連れ去っていってしまうのではないかという不安を、二人はその胸中に抱き続けていたのです。
 その不安が今日、自称十代の可憐な美少女の登場と退場のおかげで、綺麗に消え失せてしまったのです。
 決してエバには言えませんでしたけれど、二人はそれがとても嬉しかったのです。


 なのに、その日以降、エバは深刻な顔をして一人で物思いに沈むことが多くなりました。
 団子瞬と団子氷河は、そんなエバの様子に不安な胸騒ぎを覚えたのですが、なぜかその不安を言葉にすることができませんでした。二人の中には、もしかしたら、それはどうしても避けられないことなのだという予感があったのかもしれません。
 そして、運命の日はやってきました。

 その日、庭で花壇の手入れをしていた団子氷河と団子瞬のところに、荷物をまとめたエバがやってきて、二人が恐れ続けていたその言葉を告げたのです。
「瞬、氷河。俺は、この村を出ようと思う。そして、広い世界を見に行ってこようと思うんだ」
「ど……どうして急にそんなこと……。この村で何か嫌なことがあったの? 何かつらいことが――寂しいと感じるようなことが……」
「瞬たちの側にいて、それはない」
 団子瞬の心配を、エバはすぐに否定しました。
 エバがこの旅を決意したのは、決して、この村にただ一人の人間として存在する寂しさのためなどではなかったのです。
「あの黒尽くめの女が帰っていったあと、ずっと考えていたんだ。俺はいったい何のために生まれてきたのかってことを。俺には、もしかしたら何かやりとげなければならないことがあるんじゃないか……って」
「エバちゃん……」
「俺は氷河と瞬に愛されて育ってきた。本当に感謝してる。氷河と瞬に拾われなかったら、俺は死んでいたかもしれない。いや、多分、死んでいたんだと思う。俺は、でも、ここではないどこかで、何かすべきことがあるような気がしてならないんだ」
「すべきこと――って、あの女の人が言ってたことを気にしてるの? あの人、メーカイのオウっていうお仕事は、冷酷じゃないと務まらないようなことを言ってた。エバちゃんに、そんなことできるわけないよ。エバちゃんがそんなことに責任を感じる必要なんてないんだよ」
 もしかしたら彼女は、世界征服を企む悪の秘密結社の一員か何かなのかもしれません。団子瞬は、エバにはそんなことに関わってほしくありませんでしたし、それはエバの身にこの上ない不幸を招くことだとも思っていました。
 けれど、エバはそんなことを考えていたわけではないようでした。
 団子瞬の不安を打ち消すために、彼はその顔に明るい笑顔を浮かべました。
「あの女の言っていたことは気にしてないんだ。俺が生まれてきた訳は俺自身が探すつもりだよ」
「エバちゃん……」
「そして、ついでに、氷河にとっての瞬、瞬にとっての氷河みたいな人を見付けたい。その人はこの村にはいないことはわかってるから」
 そう言われると、団子瞬と団子氷河は、もう何を言うこともできませんでした。
 彼と同種族の人間は、この村には一人もいません。彼の生涯の伴侶になれる人間、彼が心から恋し結ばれることのできる人間は、ここにはいないのです。
 エバがそんな人を求める気持ちは、誰にも止めることはできません。止めることはできないのだということを、団子瞬も団子氷河もわかっていました。
 それでも――それでも、エバを見上げた団子瞬の瞳からは ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてきてしまったのです。
 団子瞬は、決してエバの旅立ちの決意が悲しいわけではありませんでした。悲しいわけではなかったのですが。
「昔は、僕より小さかったのに……。エバちゃんは、僕たちに愛されてるだけじゃ足りなくなるくらい、大人になったんだね」
 いいえ、やはり、団子瞬は悲しかったのです。
 エバの決意が誇らしくて、悲しくて、でも、自分が今エバのために笑顔を作らなければならないということも、団子瞬はちゃんとわかっていました。
「行ってらっしゃい。でも、ここはエバちゃんのふるさとだからね。いつでも帰ってきていいんだからね」
 自分の足で新しい世界に旅立っていこうとしているエバに団子瞬が与えられるものは、その言葉だけでした。他には何もありません。
 希望をもって生きることの大切さも、優しい心で人に接することの豊かさも、人に愛されることの幸運も、人を愛することの幸せも、ぜんぶぜんぶ、団子瞬はエバに教えたあとだったのです。
「うん」
 団子瞬に頭を撫でてもらうために腰をかがめたエバは、それから団子氷河の方へと視線を巡らせました。
「氷河……」
 団子氷河は、不機嫌そうな顔をしていました。そして、怒ったような声で言いました。
「俺は、瞬を泣かせる奴は大嫌いだ。勝手にどこへでも行け」
 それが団子氷河の、あまり素直でない激励なのだということがわかるくらいに、団子氷河とエバは家族でした。大好きだからわかるのです。
 エバは唇を噛みしめて、彼に頷きました。
「俺は、本当は自分が悪魔の子だったような気がするんだ。俺が悪魔でないものになれたのは、氷河と瞬のおかげだと思う」
「そんなことない。エバちゃんは、いつだって天使みたいに可愛いかった」
 目に涙をたたえた団子瞬に、エバは微かに首を横に振ってみせたのです。エバにとっては、団子瞬こそが天使でした。
「ありがとう。瞬、氷河」

 そうして、その日、エバは一人で団子村を出ていきました。
 団子氷河と団子瞬は、エバの強さを信じて、彼の旅立ちを見守ることしかできませんでした。
 だから、二人はそうしたのです。

 YOURS EVER ――永遠に、あなたたちのもの――。
 二人の許に、エバは あのペンダントを残して旅立っていきました。


 エバが団子村を出ていってから、団子瞬はしばらく放心状態でした。ごはんの支度を忘れたり、何時間も窓の外を眺めていたり――。
 エバのいない生活に、心と身体がなかなか慣れてくれなかったのです。
 さすがに心配した団子氷河が、ある日、団子瞬に言いました。
「そう気を落とすな。エバの手前、我慢していた分、これからは俺が我儘になって、おまえに面倒をかけてやるから。あまり沈んでいると、エバが心配するぞ」
「……うん」
 団子瞬が心おきなく意気消沈していられたのは、本当は、団子氷河がいつも自分を見詰めてくれていることを、団子瞬が知っていたからでした。
 でも、いつまでも団子氷河に甘えてばかりもいられません。団子瞬は、団子氷河にほのかに笑いかけました。
「大丈夫。エバちゃんを育てながら、僕も少し大人になったの。エバちゃんは立派に自分の旅を続けられるし、心配することなんかないんだってこともわかってる。ただちょっと……寂しいだけ」
「おまえにそんなことを言われたら、俺の方が寂しい」
 エバのおかげで素直になることを覚えた団子氷河が、やはり少しばかり寂しげな目をして団子瞬を見詰めています。
 団子瞬は、彼に肩を抱いてもらえるように、団子氷河が腰掛けているソファの隣りの場所に腰をおろし、それから彼の肩に頬を預けていきました。
「エバちゃんは僕たちが育てたんだもの。きっと幸せを見付けて、いつか僕たちのところに帰ってきてくれるよね」
 頷く代わりに、団子氷河の手が団子瞬の肩を抱き寄せます。
 静かな静かな秋の夜が、そんな二人を優しく包んでくれました。


 団子村は、ゆるやかに優しく時の流れる村。
 二人はそこで、闇色の瞳をした子供の帰りを今でも待っています。





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