新宿新都心の外れに建造されたその劇場は、ハイ・ソサエティの社交場以外の何物でもなかった。 著名な歌手を招いて行なわれた こけらおとしに招待された客の車は、半数以上が560SELクラス以上のベンツで、氷河の赤のサーブは、広い駐車場で異彩を放っていた。 (こいつら、サーブなんか車だと思っていないんだろうな……) ベンツとベンツに阻まれて駐車場からの脱出が不可能になってしまった愛車のボンネットに手を置いて、氷河は為す術もなく溜息をついた。 どうやって この東京にこれだけの土地を確保できたのかと思うほど広大な敷地を有するその劇場は、それにも増して広大な駐車場を持っていた。 これまでビルの地下駐車場や立体駐車場にばかりお世話になっていた氷河は、星空の下にあるこの広い駐車場に日本という国と社会の矛盾を思いつつ、早く愛車の両脇のベンツの主が(この場合、所有者ではなく運転手の方であるが)きてくれないものかと、気を揉んでいたのである。 「 期待していた“主”ではなかったが、ふいに、低いが良く通る男の声が氷河の耳に届き、それで彼はふっと顔をあげた。 氷河のサーブから30台分ほど向こう側にある 中央に、白いスーツを身に着けた、少年とも少女ともつかない人物の影があった。 「運転手がいないのでしたら、我々がお連れしましよう」 「あなた方のご主人には、もうお会いしないと言ったはずです」 「城戸様は、あなたを非常に気に入っておられまして、ぜひともお連れするようにと仰せなのです」 そう告げる男の言葉使いは慇懃であったし、仕草もまた丁寧なものだったが、声の響きにはどこか下卑たものが含まれていた。 「くどい!」 どうやら絡まれているのは、随分と気の強い少女のようだった。 自分を取り囲む数入の男たちに吐き捨てるようにきっぱりとそう言って、彼女は、その内のりーダー格らしい男をきつい目をして睨みつけた。 「あくまでそうおっしゃるのでしたら、不本意ながら力づくになります」 男がすっと少女に近付き、その手首を掴む。 そのまま捩じあげようとした男の手を、どういう芸当なのか少女はするりとすり抜けた。 それを合図に、他の男たちが、少女と少女のベンツを取り囲んでいた間合いを少し狭める。 少女には、後がなかった。 「人を呼びます! ご主人の体面に傷がつきますよ!」 「我々は多少のことは揉み消すことができますし、城戸様は是が非でもとおっしゃっておりましたので」 「馬鹿な! こんなことのために、無用な危険を冒すつもりなのですか、城戸は! 仮にも、城戸グループの次期総帥たる者が!」 「永宮様。お声が大きすぎます」 男が 少女の肩に手をかけ、彼女の瞳に怯えの色が浮かぶ。 氷河がその様を見てとることができたのは、つまり彼が、それを見てとれるほどの場所に立っていたから――移動してきていたからだった。 「力づくというのは、感心しない やり方だな。こういう子を口説く時には、紳士的に、かつ、それなりの投資をしてから報いを求めるのがルールというものだ」 言いながら氷河は、振り返ったりーダー格の男の襟首を掴んで上体を押さえ込み、その腹部を膝で蹴りあげた。 彼等は瞬時に全身を緊張させ、そして それぞれがさりげない構えを見せた。 そして、愛車の にっちもさっちもいかない状態に苛立っていた氷河もまた、彼等をちょうどいい鬱憤晴らしの相手と考えて、拳に力を込めたのである。 「馬鹿者! 部外者を巻き込んで、こんなところで騒ぎを起こせるか!」 が、残念なことに氷河は、積もり積もった欝憤を晴らすことはできなかった。 多分に腰くだけの感はあったが、それでもそのリーダー格の男は、己れの部下のマネージメントだけはしっかりやっているものらしい。 かつ、その判断も的確だった。 表にせよ裏にせよ、 彼等の主人の風聞に傷をつけるのは、彼等の職務に反することでもあるはずだった。 「──後日また参上いたします。城戸様のお申し出、よく お考えおきください」 男が軽く、その少女に会釈をし、部下たちに顎をしゃくるようにして退散の合図を送る。 彼等はそれぞれ別の方向に、まるで何事もなかったかのように静かに自然に散っていった。 氷河はといえば、男たちのあまりにあっさりした引き際に、思いきり気が抜けてしまっていたのである。 もっと違う展開を、彼は期待していたのだ。 「 Thank you,sir 」 男たちの後ろ姿をきつい目をして睨んでいた少女が、肩から力を抜いて、氷河に笑いかけてくる。 笑った途端に彼女は、理知的で勝気そうな少女から、大きな瞳に どこかあどけなさの残る可憐な少女へと変身した。 氷河の金髪と碧眼を認めたせいなのだろう。 彼女は英語で氷河に礼を告げてきた。 「 I'm not “sir”,lady。日本語で構いませ……」 言いかけて氷河は目を見開いた。 真正面に対峙するまで わからなかった自分が滑稽に思える。 「 I'm not “lady”。日本語がおわかりになるのですか」 少女は少女ではなかったのだ。 少し長めの髪、細い肢体、繊細な面立ちの──それは、少年だった。 「ありがとうございます。とても助かりました。ぜひ お礼をさせてください」 「礼はいらないが……。これはまた随分な どこから何をどう見ても日本人ではない氷河の口から『別嬪』などという単語が飛び出てきたのを意外に思ったらしい。 彼は唇の端を微かにあげて、いたずらっぽく微笑した。 「あなたほどではありません」 「は……」 本気で言っているのか、それとも冗談のつもりなのか――その判断に迷うところはあったのだが、その答えを手に入れたところで、特段の益を得られるとも思えない。 そう考えて、氷河は、その件は不問に処すことにした。 美人と醜い人間は知性を認めてもらいたがり、その中間に位置する人間は容姿を誉めてもらいたがる──と、俗に言うが、この少年は、自分の容姿を讃美されるのはあまり好きではないらしい。 これだけの美形なら それも道理と、氷河は肩をすくめて苦笑した。 「あなたも運転手が来なくてお困りなのですか」 「そんなものはいない。周りのベンツが俺の車を取り囲んでくれたせいで、車を出せずに立ち往生しているだけだ」 「それは大変ですね。あの頭の痛くなるようなオペラはあと2時間は終りませんよ。それまでは運転手の呼び出しもしてもらえないようですし」 歳に似合わぬ落ち着いた声で、彼は気の毒そうに氷河に告げてきた。 氷河の服装からして、彼がこの劇場への招待客でないらしいことには気付いているのだろうが、それについては少年は何も言わなかった。 「まあ、なんとかなるだろう。いざとなったら──」 と、氷河が話し始めたところに、どうやら少年の待っていた人物がやってきたらしい。 「申し訳ございません。もうお帰りとは存じあげませんで」 「ああ、すみません。車を出してもらえますか。今夜はもう帰ります」 使用人に言うにしては、ひどく丁寧な言葉使いである。 が、またそれが、らしくて嫌味がない。 氷河は良い気分になって、少年のベンツの前から2、3歩後ずさった。 後部座席に落ち着いた少年の横顔がまた、優しい線で描かれている。 このままもう会うことはないのだろうことを少し残念に思いつつ、氷河は愛車の方へと歩き出した。 それを遮るように、少年の乗ったベンツが氷河の脇に停車する。 氷河が顔をあげると、目の前でベンツのドアが開き、中からよもやと思った声が響いてきた。 「──乗って」 「……」 この声に応じたら何かが変わってしまう──たとえば、自分の運命というものを構成している歯車のようなものが。 そんな考えかが、なぜか ふいに氷河の胸中には生まれたのである。 少年の姿と印象は、そんな予感が生まれることを非論理的と思うことができないほど、不思議に特別なものだったから。 ジュリエットに出会った瞬間のロミオなら、この“感じ”をわかってくれるだろうか。 そんなことを、氷河は思ったのである。 このまま この少年と別れてしまうことなどできないと感じていること自体が、すでに運命なのかもしれない──と。 運命には逆らえない。 運命からは逃れられない。 よい運命からも、悪い運命からも。 人は、その運命を乗り越えて生きていくしかないのだ。 それが、人間の人生に関する氷河の持論だった。 |