瞬は、その穏やかな面差しの裏に意思の強さを秘めた少年だった。
週に1、2度 彼の邸を訪ね、他愛もない、だが、少しでも気を抜くとすぐにやりこめられてしまうような会話を重ねていくうちに、氷河は、彼の気の強さと脆さとに気付くことになった。
瞬が最も意思的になるのは――頑なといっていいほど依怙地になるのは――話が彼の兄に及んだ時で、瞬は、数年前家を出たきり音信もない兄が、いつか必ず自分の許に帰ってきてくれるのだと信じ、その時を待っているらしかった。
これだけの家邸を捨てて出て行くのには相応の理由があったのだろうし、だとすれば、そう簡単に瞬の兄がこの家に帰ってくるとも思えない――というのが、氷河の偽らざる見解だったのだが。

瞬は、この家をなるべく手つかずのまま兄の手に渡すために、かなりの無理をしているようだった。
土地を切り売りするでもなく、邸内にある美術品を売り払うでもなく、莫大な固定資産税と維持費を、いったい瞬がどこから捻出しているのか、最初のうちは氷河には わからなかった。
早くに亡くなった彼の両親が 相当額の債券類と特許権を残してくれたのだと、氷河は かなり後になってから聞かされた。

「瞬は兄貴の話をする時が、いちばん楽しそうだな」
氷河はやっかみ半分で、幾度も瞬にそう告げた。
「あなたのようにたくさんのジョークを知りませんから」
そのたび瞬は軽くかわすようにして、すぐについと横を向いてしまう。
肉親もなく、あえて友人を求めようともせず、瞬がこの豪奢で空虚な広い屋敷でひとりきり暮してこれたのは、ただ再び兄に会うという望みのゆえであり、兄に対する瞬の肉親の情は鋼のように強くひたむきであることを、瞬と過ごした数ヶ月の間に 氷河はいやになるほど思い知らされた。
『早くに両親を亡くしたせいで、僕には幼い頃から兄しかいなかったのです』と、瞬は、弁解するようにその理由を告げるのだが、執拗なまでに兄こそがこの家の当主だと強調する瞬に、氷河は何か不自然なものを感じていた。

「瞬。面白いことを教えてやろうか?」
それほどまでに瞬が慕う彼の兄に興味がないわけではなかったのだが、氷河は、それを瞬の口から聞かされるのが段々嫌になってきたのである。
熱を込めて瞬が口にする兄への思慕や賛辞──曰く、兄は誰よりも優しい、曰く、兄は誰よりも強い、曰く、兄は誰よりも男らしく、曰く、兄は誰よりも自分のことを思ってくれていた、etc.etc.――は、氷河には不愉快以外の何物でもなかった。

「はい? 何ですか?」
瞬の前で氷河が らしくもなく多弁になるのは、瞬に兄に関することを言わせずにおくためだったのかもしれない。
「いいか。絶対に笑うなよ」
「……はい……?」
“面白いこと”なのに『笑うな』とはどういうことなのかと訝ったのだろう。
瞬は首をかしげ、それでも ゆっくりと頷いた。
そんな瞬に、氷河は、大層な秘密を打ち明けるのだと言わんばかりに真剣な表情を作ってみせたのである。
実際、それは大層な秘密だったのだ。

「俺はおまえと一つしか歳が違わん」
「え?」
「俺は今、18歳だ」
一瞬 ぽかんとした顔になった瞬が、次の瞬間 ぷっと吹き出すのを、氷河は少々きまりの悪い気分で見詰めることになった。
「どうしたんです。そんな変な冗談を言い出して……。確かに あなたは、日本人が思い浮かべるコーカソイドの典型的な姿をしていますから、モンゴロイドよりは大人びて見えるところがあるかもしれませんけど――」

瞬は、自分の目の前にいる男がすぐに『もちろん、ジョークだ』と言って笑い出すものと思っていたようだった。
その気配を一向に見せない氷河に、瞬が僅かにたじろぎ、それから伺うように尋ねてくる。
「──本当ですか?」
おもむろに頷いてみせた氷河の前で、瞬は あからさまに その顔に驚愕の表情を浮かべた。
自分の感情の動きを――特に驚嘆の類を――他人に悟らせない鍛錬を積んでいるはずの“人種”である瞬が見せた その表情に、氷河は大いに満足し、そして少々落胆してしまったのである。
一瞬でも 瞬から兄のことを忘れさせることができたことは嬉しいのだが、ここまで露骨に驚かれると、自分はそんなに老けて見えるのかと、自らの若さに自信を失わずにいられなくなるではないか。

「ぼ……く……、27、8歳くらいかと思っていました。だって、とても話題が豊富でいらっしゃるし、僕を子供扱いなさるし、世慣れた感じで──見た目はとてもお若いですけど、あの……ベビー・フェイスなのかな――って……」
「27、8のいい大人を拾ったつもりでいたのか」
「拾っただなんて……。だって、困っていらっしゃるようでしたから…」
まだ少し疑わしげな様子で口ごもる瞬を、氷河は手を振って遮った。
「その言葉使いをやめてほしくて白状したんだ。『あなた』もやめろ。『おまえ』か『貴様』か『君』か、でなかったら『氷河』と呼び捨てだ」
「氷河……ですか……?」
「そうだ」
「努力……は、してみます…」

瞬の『あなた』を『氷河』に移行させるのには結局1ヶ月近い時間を要したのだが、それでも氷河はなんとかその難事業を成し遂げることができた。
癖になってしまっている敬語はなかなかやめされられなかったが、それでも瞬は、出会って3ヶ月後には、氷河を『氷河』と呼んでくれるようになったのである。






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