「氷河……は、稔さんと兄弟なの?」
瞬が、おずおずと遠慮がちに尋ねてくる。
「違う」
氷河は、瞬のその言葉を言下に否定した。
「氷河は城戸の一員だ」
城戸稔が、氷河の言を更に否定する。
「もちろん、氷河は城戸の一員だ。母親の違う私の弟なんだが、どういうわけか、ひどく父と城戸の家を嫌っていてね」
「どういうわけか、だと !? 」

瞬の肩を抱いている氷河の手に、力がこもる。
その手の力、その手が帯びている熱と怒りに、瞬は驚き怯えているだろう。
それはわかっていたのだが、氷河は今は瞬を自分の側から離す気にはなれなかった。
瞬の肩を抱きしめていないと、城戸稔に殴りかかっていってしまいそうな自分を抑えるために。
「母には夫がいた! それを力づくで奪い取り、俺を産ませ、あげくの果てに紙くずのように捨てておいて、どういうわけかも何もないだろう! 城戸さえ母の前に現れなければ、母は幸福なままでいられた! あんな死に方はせずに済んだ!」
「氷河……」
氷河が、瞬に これほど激した様子を見せるのは、これが初めてだった。
瞬以上に 虚勢を張って無理に大人びた振舞いをしていた自分の正体を、氷河は 瞬にだけは知られたくなかったのだが、今は自分を抑えられない。

「妾腹の子だからといって、父や私がおまえを粗略に扱ったことはないぞ。優秀な男であれば、その出生など城戸にとっては問題ではない」
「何が問題ではないと言うんだ! 城戸に捨てられ、夫の許に帰ることもならず、母はたった一人で俺を育てた。俺だけのために生き、俺のために死んでいった。俺さえ生れていなければ、母はもっと違う生き方もできたはずだ。俺は、こうして自分がこの世に在ることを幸福だと思ったことなど、一度もない!」
氷河の激昂の様を呆れはてた子供の仕儀だと思っているらしく、城戸稔は蔑むような目で、取るに足りない問題で熱くなっている彼の弟を、理解し難いものを見るように眺めていた。

「氷河……そんなこと言わないで」
瞬がおずおずと遠慮がちに、何かを怖れ ためらうように、その手で氷河の胸に触れてくる。
氷河は、瞬の手に触れられてたところが、かっと熱くなったような気がした。
「氷河が僕の側にいてくれて、それで僕がどれだけ慰められていたのか、氷河は知らないのでしょう? 氷河が僕のところに来てくれる時を、カレンダーや時計を睨みながら、僕がどれだけ心待ちにしているのかも知らないでしょう? 氷河が僕の側にいてくれる時、氷河がどれだけ僕を幸福にしてくれているのかなんて考えたこともなくて、僕がどれだけ氷河のことを好きでいるのか、氷河は知ろうともしない」
「瞬……」

「氷河のお母さんだってそうだよ。氷河がいてくれて、氷河を愛することができて、それでお母さんは幸せだったのかもしれないと、氷河は考えたことがある? 人を不幸な存在だと決めつけるのは、その人を侮辱することだよ。高慢なことだよ。そんなふうに考えていたら、氷河は本当に不幸な人間になってしまう。だから……そんなことを言うのはやめて」
「……」
確かに氷河はそれまで考えたことがなかった。
瞬が自分の訪問を心待ちにしてくれているなどということは、ただの一度も。
熱く潤んだ瞬の瞳は、たとえそれが“友人”に向けられたものなのだとしても、氷河の胸を騒がすのに十分な力を持っていた。
氷河は、今すぐに瞬を思いきり抱きしめてしまいたいという衝動にかられたのである。
その腕に抱きしめることのできるものこそが、自分を支え守ってくれるもの。
それを手に入れることができさえしたら、母の つらい一生も、自らのこれまでの生の空虚さも忘れ去ることができるかもしれない──と、氷河は思った。

「しゅ……ん……」
かすれた声で、氷河は瞬の名を口にした。
本当はもう“友人”などではいたくないのだと、彼は瞬に告げてしまいたかった。
だが、氷河の兄が、それを妨げたのである。
「瞬」
彼は、彼の弟とその恋人に 嘲笑うような視線を投げ、そして言った。
「おまえにそんなことができるはずがないだろう? プライドの高いおまえが、負い目を抱えたまま、この私の弟と慇懃を通じるというのか」
「……氷河は僕の友人です! そう言ったはずです!」
氷河の腕と胸から、瞬の温もりが消えていく。
氷河の側から、瞬は静かに身を引いた。
だが氷河には、そのことよりも、瞬の言葉の方が数倍も つらかったのである。

(友人……か……)
多分──それはそれで得難いものではあるのだろう。
友人の振りをし続けることができなくなった時、瞬の側を去らねばならないというのなら、氷河は、耐えられる限りはその立場に甘んじていようと決意していた。
「……友人のままでいる。だが、瞬……俺はおまえを──」
「氷河……」
瞬が、明白に氷河の言葉を遮ることを目的として、叫ぶように彼の名を呼ぶ。
瞬はその目に涙をためていた。
「僕、もう一人はいやです。お願いですから、いつまでもいつまでも僕の友人でいてください」
「瞬……!」
「──いつまでも僕の側にいてください」
「瞬……」

今更 告げるまでもなく、やはり瞬は知っているらしかった。
氷河が自分に対して抱いている感情が、どういう種類のものなのかを。
知っていて、その上で あくまで友人でいてくれと望むことの残酷さを、瞬が理解しているのかどうかはともかくも。
だが、恋情を友情と偽って側にいる“友人”のことを、はたして“友人”と言ってしまってよいものだろうか。
氷河にとって瞬は、決して友人などではなかったのである。

「気位が高く、お綺麗なおまえにふさわしい“恋”だな、瞬。氷河、なぜ瞬がおまえを友人としか呼べないのか、その訳を教えてやろうか?」
「稔さん……!」
氷河と瞬のやりとりを愉快そうに眺めていた城戸稔を振り返り、瞬はすがるような視線を彼に向けた。
「お願い、氷河には言わないで! 何でもしますから、稔さん!」
「瞬は私の情人いろだったんだ」
「稔さん、やめて!」
「2億3億の小切手をちらつかせて、この私が幾度も迫ったというのに、そのたびごとに拒絶した。だが、兄の情報と引き換えにという条件を提示したら、それだけのことで、瞬は たやすく私に身を任せた」
「稔さんっ!」

瞬は、正気を失ってしまったような目をしていた。
涙のない、だが、泣きはらした後のような目で、瞬が救いを求めるように氷河を見詰めてくる。
『せめて友人として、側にいたい』というのは、氷河ではなく、瞬こそが抱いていた悲しい望みだったのかもしれなかった。
「瞬……嘘だな?」
「あ……」
「こいつの出まかせだな? おまえはそんなことはしない。俺の知っている瞬は、そんな愚かな人間ではない!」
「氷河……」

愚かな振舞いだったと、自分は心弱い人間だったと、今の瞬は思っているようだった。
その悲しげな目が、氷河に そう告げていた。
兄の行方を知りたいと思ったのは事実だった。
だが、それとは違う心のどこかに、一人ではいたくない、誰かの手にすがりたいと思う気持ちがあったものまた事実だったのだ――と。

だが、瞬のそんな訴えなど、氷河は聞きたくなかったのである。
たった今も、これから先も、絶対に聞きたくなかった。
「嘘でもいいから、こいつの出まかせだと言え、瞬!」
「氷河……」
瞬が切なげな目で、激昂している“友人”を見詰めてくる。
瞬が、どうして氷河の望みに従うことができるだろう。
瞬は、大人の振りをすることはできても、嘘はつけない人間だった。
それは氷河もわかっていた――知っていた。
案の定、瞬は、氷河の願いを聞き入れず、正直に――氷河の前で 力なく首を横に振った。

「僕……は、氷河に嘘をつきたくありません。ごめんなさい、氷河、もう帰ってください」
「瞬! おまえが嘘だと言ってくれたなら、俺はそれを信じる!」
命令するような、だが、それは懇願だった。
瞬は、そして、再び、氷河の前で左右に首を振ったのである。






【next】