3週間近く、氷河は瞬の許に連絡を入れなかった。 ──永遠に入れないつもりでいた。 最初のうちは瞬も“友だち”のことを心配したり寂しがったりするかもしれないが、兄が側にいれば、瞬はそんな感情はいつしか忘れてしまうだろう。 そういえばそんな友人もいた──と、時々思い出すこともあるかもしれないが、やがては思い出しもしなくなるだろう。 氷河はまた、日々の生活に漂い始めた。 母が『生きろ』と言ったから生きているだけの生活――を、それでも以前はもう少し楽むことができていたと思う。 瞬を知り、瞬と対峙している時の心地良い緊張感に慣れてしまったせいなのかもしれないが、瞬とはもう会えないと意識して過ごす毎日は、気怠くて退屈で、そしてやけに疲れる日々だった。 瞬は自分のことを河も知らない。 どこに住んでいるのか、どうやって生計を立てているのか──。 言わずにいて良かったと思う。 未練がましい期待は抱かずに済んだ。 そうこうしているうちに、氷河は、その新聞記事に出会ったのである。 一番町の旧永宮侯爵邸が150億ほどの金額で、某不動産会社に譲渡されたという記事に。 (瞬…… !? ) 正午近くに寝惚けまなこで開いた新聞を、氷河はぐしゃりと握りしめた。 それでもどうしても耐えられなくなった時には、あの広い屋敷の庭に忍び込み、瞬の姿を垣間見るくらいのことはできるだろう──そう思えばこそ氷河は、ある意味では安心していたのである。 瞬の身に何かが起こり、彼が不幸な目に合った時には、影ながらにでも手を指し延べてやれることもあるかもしれない──と。 氷河は急いで衣類を身に着け、瞬の邸へと車を走らせた。 ──瞬の家の門は固く閉ざされ、関係者以外立ち入り禁止のプレートが掛かっていた。 その門の前で、氷河は呆然としてしまったのである。 幾度もこの屋敷に足を運び、瞬と、時を忘れ時を過ごこした。 凍えた心を温めてもらうために瞬の優しい手を欲し、その身体を抱きしめたのは、ついこの間のことなのだ。 瞬と、瞬との思い出と、そして、あの夜 瞬を抱きしめ自らの内に育んだ儚い夢に続くすべてのものは、こんな形で失われてしまうものだったのだろうか。 氷河は唇を噛みしめ、恋と瞬と自分とを永遠に分けてしまった鉄の門に拳を叩きつけた。 「……氷河」 だが次の瞬間に、氷河は、自らの夢の礎たる人の声を聞くことになったのである。 優しい響きは、これまで氷河が一人きりで過ごしてきた時のすべてを否定してくれる、彼の恋人のものだった。 「しゅ……ん……?」 声の主は、氷河が振り返った視線の先に、相変わらず可愛いらしい瞳に当惑の色を浮かべ、小首をかしげるようにして、ちょこんと立っていた。 いつもより印象が子供っぽく感じられるのは、どうやら彼が身に着けている白いトレーナーとGパンのせいらしい。 上着もタイも身に着けていない瞬の姿を見るのは、氷河は これが初めてだった。 「え……と、兄さんが、捜す当てがないのなら、自分が動くより、相手がこちらに来ざるを得ない状況を作った方がいい……って……」 「瞬……」 「そんなにあの毛唐が大事なのなら、2、3日 門の前で飲まず食わず眠らずで待っていることだってできるだろう──って」 「の……飲まず食わずで眠らずに待っていたのか……?」 「この家を売ったっていうニュースをマスコミに流してからだから、まだ1日と半分しか待っていません」 「お……俺が新聞を読まないとか、そういうことを考えなかったのか」 「そういう時は身の不運と思って、のたれ死にしろって」 「 「うん」 「なんてひどい兄貴だ」 「兄さんは優しいよ、とっても」 瞬はその主張に絶対の自信を抱いているらしく、至極きっぱりと言い切ったのだが、それよりも今、彼はそんな問答とは別のことを氷河に期待しているようだった。 「俺の次に、だ」 氷河の言葉に、瞬が首をかしげる。 「無責任な言い方ですけど、僕には何とも言えません」 「嘘をつけないのが、おまえの欠点だな」 段々と、今 自分の前に瞬がいるという実感が湧いてきて、氷河は彼の恋人にシニカルな笑みを投げた。 「長所だと言う人もいるよ」 「そいつは一般人とは価値感が違うんだろう」 「氷河は?」 すかさず切り込むように、歯切れの良い瞬の問いが飛んでくる。 大きな瞳で恋人の顔を覗き込んでくる瞬に、氷河は熱を帯びた眼差しを注ぎ、無言で彼を見詰め返した。 「氷河……は……?」 そして、氷河はそれ以上耐えられなかったのである。 「俺がまともなはずがないだろう…!」 ぎりぎりまで塞き止められ、やっと流れ込む先を見付けた急流が逆巻き奔流するように、氷河は瞬の身体を力の限り抱きしめた。 「瞬……!」 どれほどきつく抱きしめても、抱きしめる腕に込める力が足りないような思いにかられ、更に力を込めて抱きしめる。 うわ言のように幾度も瞬の名を呼び、氷河は、愛しむように瞬の髪に頬ずりを繰り返した。 「俺のものだ! 俺だけのものだ! もう誰にも渡さない。もう絶対に離さない……!」 氷河の胸と腕とに痛いほど身体を圧迫されて、瞬は、初めて恋した人に抱きしめられ どうすればいいのかがわからずにいる幼い恋人のように、氷河の胸の中で大人しくしていた。 兄が帰ってきて、預かっていたものをすべて兄に手渡し、これでやっと自由に――おそらくは恋人と――生きていけるようになると思っていた矢先に、忽然と姿を消し連絡を断ってしまった恋人に、瞬は 本当は恨み言の一つでも投げつけてやりたいところだったのかもしれないが、それでも。 「に……いさんが、こんな廃屋に縛りつけられているなんて馬鹿馬鹿しいことだから、いっそ売り払ってしまえって言って、それで……」 いつまで経っても解放してもらえない抱擁の中、喘ぐように かすれた声で、瞬が事の次第を氷河に説明してくる。 「どこかの不動産屋さんが買っていったんだけど、そのお金、みんなユニセフに寄附しちゃって、だから……」 それでも瞬は、自分の恋人の誠実さに一抹の不安を抱いていたのかもしれない。 彼は恐る恐る小さな声で氷河にその事実を告げてきた。 「僕……一文無しなんだ、氷河……」 氷河の答えに怯え 小刻みに肩を震わせ始めた瞬の身体を、氷河はやっと激しい抱擁から解放してやったのである。 視線だけは、瞬の上から離さずに。 「これで、心おきなく言えるわけだ」 「え?」 そして氷河は、馬鹿なことを心配している恋人に真顔で告げたのである。 「今すぐ俺のマンションに掃除をしに来てくれと、な」 瞬の瞳が、得難い宝石のように生き生きと輝く。 「氷河……!」 次の瞬間 氷河は、瞬の優しい腕にしっかりと抱きしめられ、そして、夢を手に入れていた。 Fin.
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