- III -






カナダグランプリ決勝後、氷河は瞬の行方を知ることはできなかった。
どうやら一輝がチーム内に箝口かんこう令をいたらしく、プロジェクトHSの誰に訊いても、彼等は、瞬の移動日、移動先、滞在ホテルの名を氷河に教えてはくれなかったのである。

「レース前に、瞬のコンセントレーションを妨げるようなことを言ったそうじやないか。今期、うちのチームは、瞬というセカンド・ドライバーを得て、ドライバーズ、コンストラクターズのダブル・タイトルが狙えるところにいるんだ。他チームの者に邪魔してもらいたくないんでね。一輝だけじゃなく、監督からも口止めされてるんだ。万一洩らしたら、うちのチームから解雇するってくらい厳しいお達しでね」
プロジェクトHSの50人以上いるスタッフ全員に当たってみたのだが、答えは皆同じだった。

「それにしても、いったい何をしでかしたんだ? マシンを壊してるのは、瞬じゃなく、おまえ自身だろう? そんなことで瞬を責めたのなら、それはお門違いだぞ。瞬は繊細な心の持ち主なんだ。おまけに、マシンをとても大事にしている。おまえのとこのマシンが壊れるのを喜んでるわけじゃない。何の気なしにでも瞬を傷付けるようなことを言ったのなら、俺たちだって黙ってはいないぞ!」
プロジェクトHSは、今シーズン、二人の最高のドライバーを得て、ワールド・チャンピオンのタイトル獲得のために一丸となっているらしい。
顔見知りの広報マンの態度も、いつになく頑なだった。

しかし、氷河としても、瞬に誤解されたままでいる状態には耐え難いものがあったのである。
これまでのいい加減さは反省もするが、それで瞬に信じてもらえないというのはつらいし、せめて、瞬に謝罪・弁解するチャンスだけでも与えてほしい。
いっそ、私立探偵でも雇って探らせてみようかと氷河が考え始めた頃、瞬の兄からコンタクトがあった。

メキシコグランプリ公式予選の4日前。
メキシコシティの氷河が滞在しているホテルに、一輝から電話が入ってきたのである。
氷河の方は、瞬たちの動向が全く掴めずにいるというのに、どうやら 一輝の方は旧KGB顔負けの情報網を有しているらしい。
彼は、氷河が探偵の物色を始めたということまで知っていた。
「おまえが馬鹿なことを始めたと聞いたのでな。探偵を手配しているそうじやないか。馬鹿な真似はやめろ」
「一輝……! 瞬は……瞬も一緒かっ !? 瞬を出してくれ! 瞬と話がしたいんだ! 瞬に会えるのなら、馬鹿な真似もやめる……!」
氷河は勢い込んで受話器にがなりたてた。
一輝が、受話器の向こうで溜息を洩らす。

「氷河。一応、忠告しておくが、瞬を追いかけまわしても無駄なことだぞ。瞬には9年越しの恋人がいるんだ。瞬が、今更貴様ごときによろめくとは思えない」
「こ……恋人……? 瞬に……?」
それでなくても瞬に誤解されたままでいることに鬱々としていた氷河に、一輝の“忠告”は、決定的・潰滅的打撃を与えてくれた。
他のすべてに恵まれているというのに、本当に欲しいものだけが手に入らない人生というのは、かなり、あまりに、非常に、不幸な人生である。
不幸なことだと、氷河は初めて知った。

「まさか……。一輝、嘘だろう? 俺を牽制するための嘘だな? 9年越しといったら、瞬がまだ10歳になるやならずの頃から……そんなことはありえない……!」
電話での会話であるが故になおさら、氷河の声の震えがよくわかったらしい一輝は、受話器の向こうで、しばし沈黙した。
やがて、おもむろに再び口を開く。
「嘘なものか。兄の俺ですら、焼きもちを焼くくらいなんだからな。おまえは、10歳の子供に恋ができるはずはないなどと馬鹿なことを言うつもりか」
「……」

反駁の言葉が思いつかず、氷河は呆然として、受話器を置いた。
一輝の言うことを嘘だと決めつける理由はどこにもない。
あの打てば響くような利発さから察するに、瞬は精神的に早熟な子供だったのだろうし、また、他人の心を惹きつけるだけの魅力を持ちあわせた子供でもあったのだろうとも思う。
だが、理屈は理屈でしかない。
氷河は理屈抜きで、一輝の“忠告”を信じたくなかったのである。
瞬に、実否を確認するまでは──。

予選1日目、2日目は、プロジェクトHSのスタッフ及び一輝のガードが厳しくて、氷河は瞬を捕まえることができなかった。
なんとか捕まえることができたのは、決勝当日、フリー走行の直前。
それも、パドック裏で隙を窺うコソ泥のような真似をしてやっと、氷河は、プロジェクトHSの強固なガード網を掻い潜ることができたのである。

「瞬……!」
ほとんど追剥おいはぎか何かの乗りでマシンの陰から伸びてきた氷河の手に、瞬はぎょっとし、その手の持ち主が誰なのかに気付くと、彼はついと横を向いてしまった。
「あなたとは話をしたくありません。レース前は特に!」
「……瞬」
「謝ったって無駄です。あなたのたちの悪い冗談を、僕は絶対に許しません……!」
幼顔に似合わない瞬のきつい目に睨みつけられても、氷河はたじろがなかった。
初めての心からの恋の行方がかかっている。
氷河は、瞬の可愛らしい睥睨ごときに たじろいでなどいられなかったのだ。

「瞬! おまえに恋人がいるというのは本当か!」
「は……?」
どうやら氷河には、謝罪する意思など全くないらしい。
「こ……恋人? ぼ……僕に?」
氷河の険しい視線と声音に、瞬は幾分怯え、そして、彼の言葉に眉をひそめた。
「9年越しの、一輝も妬くほどの恋人だと言っていたぞ……!」
「え……」

(も……もしかして、こないだの氷河のあれ、冗談じゃなかったのかな……?)
獲物に掴みかからんばかりに、あるいは、取りすがらんばかりに真剣な氷河の眼差しが、本気のそれか偽りのそれなのかを判断しかねて、瞬は少し後ずさった。
瞬を逃がすまいとして、氷河がその両腕を掴みあげる。
(で……でも、本気だったとしても飽きっぽい人なのかもしれないし、本気の真似がうまいだけなのかもしれないし、今日は決勝レースがあるんだし……)
瞬は、レース前に余計なことで気を散らされるようなことは極力避けたかった。
瞬には、何よりそれが大切なことだったし、せっかく兄が張ってくれた煙幕を無にすることもないだろうとも思う。
9年越しの恋人の存在を氷河に知られたところで、それで何の不都合が生じるとも思えなかった。

「そ……う、僕、もう恋人がいるんです。最初に言っておけばよかったですね」
「……!」
瞬に あっさりそう言われてしまい、氷河は、それこそ息が止まる思いを味わうことになったのである。
実際、彼は、しばらく呼吸することを忘れた。
瞬の口から直接聞くまでは、瞬の恋人の存在など決して信じない──と、つい5分前までは思っていた。
そうして、現に瞬の口からその事実を知らされたというのに、氷河の中では、『それでも、そんなことを信じてたまるか』という気持ちが強まっただけだった。

「誰だ、それは! 俺に会わせろ!」
多分、目の前に瞬の恋人をつれてこられても、そんなものの存在を認めることは、氷河にはできなかったに違いない。
「そいつが おまえにふさわしい奴かどうか、俺が見極めてやる!」
そして、自分以外に瞬にふさわしい者などいないと信じ込んでいる男には、瞬の恋人がどれほど優れた人間だったとしても、その事実を認めることはできなかっただろう。

「どうして僕が、あなたにそんなことをしてもらわなきゃならないんです! あなたの眼鏡に適おうと適うまいと、僕には関係のないことです! 僕は──僕が、誰よりも何よりも大事に思っている恋人なんですから、そのことで あなたに口出しをする権利はありません!」
「瞬……!」
全く反論の余地がない。
呆然とその場に立ち尽くすことになった氷河を無視して、瞬は、イヤープラグとヘルメットをつけてコクピットの中に乗り込み、さっさとバイザーを下ろしてしまった。
そして、それきり、瞬は氷河を その視界に入れようとはしなかった。


<< 19XX年 6月第3週 メキシコグランプリ >>

城戸瞬 2位 獲得ポイント 6総合 27
城戸一輝 優勝獲得ポイント 10総合 44
真船氷河 5周リタイア 獲得ポイント 0総合 20






【next】