肌を刺すような寒さのために、瞬は意識を取り戻した。
最初に視界に入ったものは、血のように赤いビロードの光沢。
彼が横たえられている寝台の天蓋に掛かっているそれだった。
視線だけを巡らし周囲を見まわしても、その広い部屋に色と呼べるものはその天幕だけだった。
あとはすべてが──壁も床も火の入っていない煖炉も、窓から見える外の景色も、辺りに漂う空気までがすべて灰色で、それ故、ビロードの赤がなおさら目を奪う。
冷たい空気のせいで、覚醒時のぼんやりした瞬の意識は、すぐに明確なものとなった。

シベリア。
オーディーンの地上代行者ドルバルの支配するヴァルハラ宮。
ドルバルのゴッドウォーリア・ミッドガルド。
氷のような感触の心の持ち主に変貌してしまった、かつての仲間──。

瞬は静かに、だが素早く、寝台の上に身体を起こした。
聖衣は奪われてしまったらしい。
室内に人の気配はなかった。
(星矢たちは、どうしたろう……?)
どのくらい意識を失っていたのか、瞬には見当もつかなかったが、どうやらすでに時刻は真夜中近いらしいことだけは分かった。
灯りの一つもないのに部屋の中を見極められるのは、ベランダに面した大きな一枚ガラスでできたドアから入る雪明りのせいらしい。
雪が、これほどまでに明るいものだったとは、瞬はこれまで知らずにいた。

「さむ……」
暖かさを伴わない明るさ──。
ドルバルから、かつての仲間を貰い受けた氷河の、変貌した姿のようだと瞬は思った。
その姿は以前と変わらず鮮やかで、だというのに、その手応えの厳しさ、冷たさ──。
ドルバルを倒しさえすれば、ミッドガルドは以前の氷河に戻ってくれるはずだと瞬は自身に言いきかせ、その直後、彼は身体を強張らせた。

(以前の──氷河……?)
ゴッドウォーリアであるミッドガルドがアテナの聖闘士キグナスに戻ってしまうことを望んで良いものだろうか──? と、瞬は自問した。
いずれドルバルは、アテナのもとに屈しよう。
ドルバルとアテナの力の差とか、彼等に従う戦士たちの小宇宙の大きさの差ゆえ──というのではない。
己れの欲望のまま、それに従い生きる──という主張を言葉にしてしまうことが“邪悪”なのだ。
それを、人は許さない。

もしここで沙織が命を落とすことになっても、いずれドルバルは滅びる。
ドルバルが自分の思うまま生きるために犠牲になる人間のすべてが、彼を許さないであろうから。
万一ドルバルが勝者になったとしたら、その時彼が手中に収めるものは、彼以外の人間の存在の無い地上であろう。
助け合い、愛し合い、共に生きる──という言葉が、その大義名分が、人間は好きなのだ。
自分が自分以外の誰かに滅ぼされてしまわないために。
“己れの欲望に従う”ということは“己れの幸福を追求する”という言葉と同義である。
そして、人間が生きている目的は、まさにそれなのだ。

アテナは、いわば“統治者”である。
この世に存在するすべての人間の絶対の幸福──そんなものは実現し得ない。
アテナは、できうる限り多くの人間に、七割か八割の幸福と安寧を与えるために存在する。
一人の人間の幸福のために他の大多数の人間が犠牲になる世界を否定するために。

彼女の聖闘士として、瞬も、これまで そのように闘ってきたのだ。
見も知らぬ多くの人々を守るため、時に心を通い合わせることのできた敵をすら倒してきた。
人を傷付けたいと自ら望んだことなど、ただの一度もなかったというのに。
人を傷付けずに済むのなら、自身が滅びることも厭わない。
だが、アテナの聖闘士が敵に破れれば、この地上に住む多くの人々が不幸になるのだと、自分に言いきかせつつ──。
それで、実際、自分は幸福になれただろうか?
自分自身はともかく、氷河は幸福だったのだろうか?
先刻ドルバルの前で瞬を見詰めていたミッドガルドの目には、以前氷河が持っていたような迷いやためらいが 一かけらも見い出せなかった。
ドルバルに与えられた まやかしの故と言えば それだけのことではあるが、まやかしの中で、氷河は今幸福なのではないだろうか──?

(何を──僕は何を考えている……?)
瞬は左右に首を振った。
それは、アテナの聖闘士が抱くべき考えではない。
考えてはいけないことだった。
ヴァルハラ宮に来る途中に眺めてきた景色のせいだ──と、瞬は思った。
今、この部屋の窓から見える雪景色のせいだ、と。

白い大地、それ以外は何も無い。
こんなところに長くいたら、とめどのないことを考え過ぎ、思考が空転し、果ては麻痺してしまいかねない。
極北の民ヒュペルボレオスが南に焦がれる気持ちがわかるような気がする。
こんな、ただ広くただ白いシベリアの地で、氷河はいつも一人きりで何を考えていたのだろう。
たとえば、生きている人間が恋しいと──彼は思いはしなかったのだろうか?

瞬は、毛足の長い灰青色の絨緞の上に足をおろした。
冷たい色の絨緞が、不思議に温かく その素足を包む。
自分が白い麻の上着を身に着けていることに、その時 瞬は初めて気付いた。
「星矢たちのところに行くつもりか」

寝台の天蓋を支える柱の横から響いてきた低い声に、瞬はぎくりと肩を強張らせた。
聖闘士を閉じ込めることができるほど堅固な牢など、この世には存在しない。
鍵などという不粋なものが、部屋のドアに掛かっているとは、瞬も考えてはいなかった。
聖闘士を閉じ込めるためには、その聖闘士と同等、あるいはそれ以上のカを持つ者を見張りとして置くか、部屋にある種の封印を施すか、もしくは、閉じ込めるべき聖闘士の意思を曲げてしまうか──するしかない。
低い声は、おそらくは、その三つのすべてたりえる男のものだった。

「氷河……」
瞬は、彼に何をされたわけでもないのに、動きを封じられてしまった──ような感覚に襲われた。
「俺のものになるのは嫌か」
「あ……」
目を奪う金色の髪と、北国の晴れた空のような瞳が、銀に色を落としている。
雪と氷に覆われた北の大地に同化したような、それでいてぴんと張りつめた冷たい空気のような眼差しが、まっすぐに瞬を見詰めていた。
言葉を失った瞬の側に、ミッドガルドがゆっくりと近付いてくる。
そして、彼は、その手を伸ばして瞬の髪を一房すくいあげた。

「嫌なら力づくになるが、それでもいいか」
指に髪を絡め、そのまま、ミッドガルドの手は瞬の首筋に下りてきた。
「ひょう……が、目を覚まして。ドルバルに、君は操られているんだよ……」
声が震え、かすれる。
「かもしれん」
首筋から肩、肩から腕──ミッドガルドの手が進むにつれ、その指に絡んでいた瞬の髪がふわりと少しずつ瞬の肩に落ちる。

「だが、そんなことはどうでもいい。ドルバルに会うずっと以前から、こうしたかった」
手首を取り、それに唇を寄せる。
「いつも望んでいた。おまえを俺の下に組み敷き、思うまま おまえを愛撫し、そして──」
その指先が辿ってきた道を逆にミッドガルドの唇がなぞっていく。
「俺の名を幾度も叫ばせ、俺のために涙を流させ、俺の身体で──」
最後に髪に口付けて、彼は瞬から指と唇とを離した。
「──俺の身体で、おまえの身体を引き裂いてしまいたいと」

瞬の鼓動が早まったのはおそらく、ミッドガルドの口付けのせいでも、彼が口にした言葉のせいでもなかっただろう。
それは多分、数分後にはかつての仲間の前に投げ出されている自身の身体に、かつての仲間の手によって与えられるだろう愛撫の予感のせいだった。






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