扉を開けたのは、昨夜シュンを狂気と歓喜の深い淵の底に引きずり込んだ男だった。手に光沢のある白い布を持っている。
神を畏れるよりずっと現実的な恐怖を覚えながら、シュンは寝台の上からその男を見上げた。
この男は、昨夜の自分の浅ましさを嘲笑うに違いない――シュンはそう思っていたのだが、彼は、涙に濡れたシュンの頬を複雑な表情で見詰めたまま、なかなか室内に入ってこようとはしなかった。
どれほどの間、無言で見詰め合っていたのか――やがてユーグが意を決したようにシュンの側に歩み寄ってくる。
手にしていた布を、彼はシュンの膝の上に投げ置いた。
「着替えだ。おまえの着けていた服はもう使えそうにない」
昨夜、激情に任せて引き裂いてしまったから――とも言えず、ユーグはそれだけをシュンに告げた。
シュンにわかるはずがなかった。
シュンの涙に、ユーグが戸惑い、昨夜の自分を悔やんでいるのだということは。
もっとも、その後悔は『もっと優しくしてやればよかった』という種類のものではあったが。
いずれにせよ、シュンにはユーグの気持ちも昨夜の行動の訳もわかってはいなかった。
ただ、この男にとって、自分は嘲る価値すらも失われた存在なのだ――と、そう思った。
だから言ったのである。
「僕を殺せ」
と。
カタリ派の完徳者たる資格を失った今、自分で自分の命を断つのは、殉教ではなく自殺になる。
これ以上の罪を、シュンは重ねたくなかった。
が、ユーグの答えはにべもない。
「それはできん」
「どうしてっ !? 」
そんなささやかな望みくらい叶えてくれてもいいではないか。この男のせいで、神と自尊心を失った哀れな子供のために――シュンは涙に濡れた瞳でユーグに訴えたが、その訴えに対するユーグの返答は、思いがけないものだった。
「――俺はおまえを愛している」
ユーグの言葉に、シュンは呆然としたのである。
意味が、全くわからなかった。
ややあってから、はっと我に返る。
「ば……馬鹿げたこと! あなたは僕の何も知らない。たった二日前に会ったばかり! 僕の何を知って、あなたはそんなことを言うの!」
十数年間自分を守ってくれていた兄をすら、愛していたと自信を持って言えないシュンに、ユーグの言葉は理解の域を越えていた。
もし彼が身体だけで人を愛することのできる人間なのだとしたら、それは人の愛ではない――とも思った。
ユーグは、しかし、昨夜のことには言及しなかった。
「知っているさ。おまえが、これまでずっと何不自由なく安穏と暮らしてきた、名門トランカヴェル家の貴公子様だってことは」
「な……何不自由なく!? 僕は戒律の厳しいカタリ派教団の慰藉式を受けて、清貧と献身の教義を守って――」
「私有財産を放棄し、肉食を絶ち、いかなる殺生もせず、いかなる肉体の交渉にも身を任せず、虚言を吐かず、清貧を旨とし――強大な力を持つ領主の兄の羽の下でぬくぬくと信仰を守ってきた、大貴族の坊やだ」
「な……そ……それなら、あなただって同じでしょう! モンフォールと言ったら、フランス中で知らぬ者はないほど有名な門閥です!」
昨夜のことで責められるならいざ知らず、これまでの清貧と耐忍エンドゥラの生活までを貶められて、シュンはかっとなった。
対照的に、ユーグの口調には起伏がない。
「――有名だが富裕なわけじゃない。早くに両親を亡くした俺を引き取る時、伯父は、むしろ他の貴族の家に養子に出した方が、俺もまともに食っていけるんじゃないかと悩んだくらいだ。伯父は第四次十字軍で命懸けで戦功を立て、やっとの思いで今の地位を手に入れたし、俺も傭兵としてあちこちの戦場を駆けまわって、今の名声を手に入れた。同じ時に同じ家から出た二人が人口に膾炙かいしゃすることになったせいで、有力な家柄だと思われることになっただけの、ろくな領地もない貧乏貴族だよ、俺たちは。でなければ、おまえの兄の領地を貰ったことで、伯父があれほど浮かれたりするものか。やっと家族に人並みのものを食わせてやれるというので、伯父は有頂天だ」
「そんな……」
シュンは、そんなことはまるで知らなかった。
アルビジョア十字軍の司令官シモン・ド・モンフォールは、法王のご機嫌取りをするために意味のない残虐行為を繰り返す、血も涙もない男だと、シュンは思っていた。信じていた。
「おまえは、死や飢えと隣り合わせのその日暮らしの悲惨さなど知らない。おまえのように恵まれた一部の人間以外の者は、騎士であれ、農民であれ、その日食うものの心配をし、戦や疫病におびやかされて毎日を過ごしているんだ」
「で……でも、僕はカタリ派の……僕に慰藉式を授けてくださったギラベール・ド・カストル殿は、どんな辺鄙な場所にも、異端審問の網が張られている都市にでも、死を恐れることなく訪れて、人々に救慰を――」
必死の反駁に意味がないことは、シュンにもよくわかっていた。
その勇敢と献身は、シュン自身のものではないのだから。
「あの有名なカストルはそうだろう。彼が、ローマの暗殺者にも異端の追求にも臆することなく、命懸けで布教を続けていることは、俺も知っている。だが、おまえは? おまえは自分の命を懸けて何をしたことがあるんだ?」
自分でもわかっていたことを、よりにもよって腐敗しきったローマ教会の手先の一人に指摘され、シュンは返す言葉を失った。
ローマの聖職者たちの堕落を糾弾したところで、それはユーグの堕落ではないし、シュン自身の安穏とした信仰の弁解にもならない。
「おまえ以外の人間は、おまえのような悩みを悩むことはない。そんな余裕はないんだ。いつも手の届くところに明確な死があって、愛がどんなものかなんて悩むことも考えることもなく、その日を生き抜くので手一杯だ。そこに食い物があれば人を押しのけても食うし、いい女がいればすぐに抱く。貧乏人の信仰は苦しい現世を耐えるためのもので、おまえのように浄らかでいたいだの、兄を汚したくないだの、そんな優雅なことは誰もこれっぽっちも考えない。おまえの信仰は貴族の坊やの道楽でしかないんだ」
「……」
シュンには反駁の言葉さえ思いつかなかった。
(……そうだったのかもしれない。僕の信仰は脆弱で、だから、あんなにも簡単に僕の魂は僕の身体に負けてしまったんだ……)
だが、では、何故――何故、この男はそんな自分を愛しているなどと言うのだろう――? 
シュンはもう、何が何だかわからなくなりかけていた。
ユーグが、混乱しきったシュンの瞳に残った涙の雫を見降ろしながら、笑みを――少し皮肉が勝った笑みを――浮かべる。
「何も考えなければ、裕福で幸せな貴公子でいられたのに、そうしなかったおまえが、俺には不思議で、な」
ユーグは寝台のシュンの上に腰を屈め、その顎を上向かせた。
「俺は見ていたいんだ。兄の庇護を奪われ、トランカヴェル家の御曹司の身分を奪われ、カタリ派完徳者としての資格を失って死ぬことも罪でしかなくなったおまえが、ただの一個の人間として、これからどう生きていくのかを。現実に負けて絶望し、生きていくことすらできなくなるのか、それとも――」
ユーグの手を、シュンは力任せに振り払った。
ユーグが肩をすくめて、また薄く笑う。
「まあ、だとしたら、俺も失望して、おまえへの愛も冷めるだけだが」
「僕は……!」
こんな、人の希望を奪っておいて、わざと奪い取っておいて、楽しそうに笑っている男などに打ちのめされたりするものかと、シュンの胸には怒りが湧いてきた。
「食うものと着るものの世話くらいはしてやるぞ。おまえの魂が腑抜けていても、おまえの身体は実に素晴らしいからな。心のない人形でいてくれた方が、都合がいいといえば都合がいい」
怒りというより、それは、反発心、あるいは自尊心だった。
「僕は! 僕は一人でも、兄さまの力がなくても、完徳者としての肩書きがなくても、あなたの人形なんかにならずに生きていけます! 僕はあなたになんか打ちのめされない…!!」
ユーグは、シュンの負けん気な宣言をひどく楽しそうに受けとめた。
小馬鹿にするように片眉を上げ、シュンの膝の上にある服を指で指し示す。
「決意だけは立派だが、まあ、その前に服を着けることだ。長々とおまえにそんな恰好を見せられていると我慢できなくなる」
「い……言われなくてもそうします……!」
シュンは、乱暴な動作で、ユーグに投げ与えられた服を鷲掴みに掴みあげ、そして、一瞬ためらった。
その白い短衣は、上等の絹でできていたのだ。カタリ派の慰藉式を受け、清貧を誓った者には身に着けることの許されないものである。
しかし、今の自分にはもうカタリ派完徳者の資格がないことを思い出し――思い知り、シュンは寝台に上体を起こしたままで、その短衣を羽織った。
飾り帯を結ぶために寝台を降りようとして、身体の中心に激しい痛みを覚える。
自分の身体が壊れていないのが不思議なほどの鋭痛だったが、シュンは自分が痛みを感じていることすら、ユーグに知られたくなかった。
何も感じていない振りを装って、崩れ落ちそうになる膝に無理に力を込め、立ちあがる。
しばらく無言でそんなシュンを見つめていたユーグは、シュンが寝台の脇に立つのを確認すると、くるりと踵を返した。
入ってきた扉から出ていこうとするユーグを、気を張って睨みつけていたシュンは、その時、ユーグの横顔に安堵の色が浮かぶのを見たような気がしたのである。
シュンは一瞬肩を強張らせた。
もしかしたら、あの青い瞳の男は、自分を生かしておくために、わざとこんな挑発めいたことを口にしたのではないだろうか――?
だが、シュンはすぐに首を横に振った。
もし彼の言う愛が真の愛なら、その愛の対象にあんなひどいことができるはずがない。
(あんなひどい……こと………)
しかし、シュンにはもうわかってしまっていた。
兄が耐えて、それでも求め続けたもの。
ブルゴーニュ公、ヌヴェール伯、サン・ポル伯等、兄の許を足しげく訪れる領主たちが、時に兄の城を訪ねてくるパリやローマからの客人たちが、城内の召使いたちまでもが、シュンを見る視線に絡みつかせていたもの。
自分の魂と身体、自分以外の人間の魂と身体とが一つに溶け合う忘我の陶酔。
それは、永遠に続かない歓びだからこそ、誰もが希求する一瞬――なのだ。
(他の誰かとでも同じだったんだろうか……)
ふとそんな疑念が湧いてきたが、シュンはすぐに考えるのをやめた。
考えても答えが得られることではないし、思い出すと蘇ってくるのだ。
ユーグの熱さを身体の奥に感じた時の、焼けつくように強い疼きが。
何があっても決してもう二度と昨夜のことを思い出してはならないと、シュンは自分自身を戒めた。
――生きていくには、生きていく目的が必要である。シュンはそれを探さなければならなかった。
(でも、この城を――この部屋を出ないことには……)
シュンは痛む身体を押して、つい先程ユーグの姿が消えていった扉に近付いた。
そして、扉をそっと押してみる。
鍵はかかっていなかった。






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