二人でいる時にはあっという間に過ぎてしまう時間は、一人きりの時には恐ろしく歩みがのろい。
意地の悪い太陽が西の空を茜色に染め始めた頃には、シュンはすっかり太陽を嫌いになってしまっていた。
それでも間もなくユーグが帰ってきてくれると思うと、先程まで恨みがましく見詰めていた太陽も、優しい光を発しているように見えてくる。
シュンの逸る心を察してか、扉の外に足音が響いてきたのは、それから間もなくのことだった。
ユーグの伯父の計らいで、コンタル城の奥のこの部屋まで入ってこれるのはユーグだけだったから、シュンは嬉々として扉に駆け寄り、山頂のキリスト像が浮き彫りになっている重い扉を押し開いたのである。
「ユーグ! お帰りなさい! 僕、待ちくたびれ……」
そこに、ユーグではない男の姿を発見して、喜びに輝いていたシュンの頬からは、一気に血の気が引いていった。
「あ……」
扉の前に立っていたのは、シュンの知らない五〇がらみの男だった。
でっぷりとした身体を重たげなビロードの司教服で包み、カタリ派聖職者が見たら憤慨しそうな宝石の胸飾りを首から垂らしている。
凍りついたように動けなくなったシュンの肩越しに、シュンの兄の部屋の様子を眺め、彼は忌ま忌ましげに舌打ちをした。
「ほう。法王特使である儂をあんな粗末な部屋に押し込めておいて、司令官の甥は当主の私室に女を連れ込んでいるのか。呆れた騎士殿だ」
俗世の垢にまみれたようなこの聖職者は、どうやら自分にあてがわれた部屋が不満で、ここまでやってきたものらしい。
シュンは、自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまったことに気付いて蒼白になった。
身を隠すべきだったのだ。
ここはユーグしか入ってこれない二人だけの国だと思い込んで、油断していた。
「女……? いや、少年か。これはまた……」
全身を堅く強張らせているシュンの顔や手足を嘗めるように見て、男はひどく下品な笑みを浮かべた。
「美しいな……。ローマの貴族の子弟の中にも、これほど美しい少年は見たことがないぞ」
その言葉にぞくりと背筋を凍りつかせ、シュンは思わず後ずさった。
恐れ――というのではない。
気味が悪かったのだ。
時に氷のやいばのような目をするユーグの方が、恐ろしいというならはるかに恐ろしい。
しかし、法王特使だというこの男の濁った目は、澱んだ沼に浮かぶ魚の死骸のような腐臭さえ感じさせる。
ローマ・カトリック教会の腐敗は聞いていたが、実際にローマの聖職者に会うのは、シュンはこれが初めてだった。
だらしなくたるんだ頬や腹、ぎらぎらと脂ぎった肌、酒も嗜むのか赤ら顔で、まるで太りすぎた牛のような男。
そんな気味の悪い男が、シュンの美しさを見てとるや、粘りつくような声で言うのである。
「そう怯えることはない。そなたはシモン・ド・モンフォールの甥の慰み者か?」
シュンは声を発することができなかった。
この男から視線を逸らしたいのにそれすらもできず、ただ瞳を見開くだけで精一杯だった。
「実に美しい。闘うしか能のない粗野な騎士にも審美眼だけは備わっているとみえる」
男はシュンとユーグの部屋に入ると、調度や家具の値踏みをするようにあちこちに視線を飛ばし、それからその視線を再びシュンの上に戻した。
「どうだ。儂と一緒にローマに来ぬか? 儂は法王猊下の信任も厚い。枢機卿に推挙されるのも間近と言われている。そなたにはどんな贅沢でもさせてやるぞ」
男が何を言っているのか、シュンには聞こえていなかった。この両生類のような肌と死んだ魚のような目をした男が、とにかく気味が悪くて仕方がない。
(な……なに? この人の目……。ユーグはどんなにたかぶっていても、こんな目はしない。兄さまだって、こんな目で僕を見たことは一度もない…!)
足が竦み、瞬きさえ苦痛に感じる混乱の中で、シュンは初めて理解した。
自分が兄の目を恐れつつ、それでも、一瞬たりとも兄に嫌悪を感じることがなかった訳を。
(兄さまは僕を愛してくださっていたから……あんまり深く愛しすぎて、僕の全てを求めずにいられなかっただけだったんだ……。兄さまは神の作った魂と悪魔の作った肉体の両方で、僕の魂と肉体を求めてただけ。兄さまが身体だけ求めてたことなんて一瞬だってなかった。ああ、きっと……ユーグもそうだった……だから僕は……)
何故今頃になってこんな簡単なことに気付くのか――シュンは胸が苦しくてたまらなかった。
男が――ローマの聖職者だという男が――高価な調度品よりシュンの方に価値があると判断したらしく、品のない薄ら笑いを浮かべてシュンに近付いてくる。
シュンは、その時、やっと思い出した。
以前、ユーグを脅すために使った剣がこの部屋にあることを。
『俺を殺したくなったら、いつでも殺していいぞ』
シュンがこの城に戻ってきた時、冗談混じりに笑って、ユーグが寝台の横の釣り棚に置いた宝剣――。
シュンは全身の力を振りしぼって、寝台の方に駆け寄った。
それを、法王特使は自分に都合の良いように解釈したらしい。
彼は満面に笑いを――下卑た笑いを――浮かべて、シュンに幾度も頷いてみせた。
「気の早い子だな。今ここで可愛がってほしいのか?」
彼はそう言って、雄牛のように鈍い歩みで寝台に近付いてきた。
シュンはこの男に触れられたくなくて――指一本でも触れられたくなくて――釣り棚の上にあった短剣を右手に強く握りしめた。






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