城塞都市の正門をくぐり抜け、二人は、ひどく長い時間を過ごしたような気のするカルカソンヌを後にした。 白光に包まれた都市を出た途端、空に数えきれないほどの星が瞬いていることに気付く。 オード川を挟んだ新市街の端にあるホテルへの道の両側には、日本では考えられないことだが、なだらかな緑の野原が広がっていた。 「ね、氷河……」 「うん?」 軽快な会話のふさわしくない春の夜の道を、それまで何も言わずに辿っていた瞬が、ふいに口を開く。 言葉の先を促した氷河の横で、瞬は、はっきりそれと見てとれるほどに深く顔を伏せ、氷河に尋ねてきた。 「あ……あの……ね、あの……。あ……あれって、そ……そんなに気持ちいいことなの……?」 「……」 街灯の下まで行かなくても、今、瞬の顔が真っ赤になっていることは、容易に想像できる。 氷河はひどく面食らった。 瞬が、自分の方からそんな話題を持ち出すなど、かつて一度もなかったことなのである。 実際、瞬自身、生まれて初めてのことだったに違いない。 瞬の気持ちはわからないでもなかった。 自分と同じ顔をした、自分より幼い少年が、男に組み敷かれて恍惚としている様を散々見せつけられた後とあっては。 氷河は一瞬迷った。 だが、その迷いはすぐに消えていった。 目の前にぶらさげられたニンジンを振り払い、わざと浮かれた調子で瞬に言う。 「ついにその気になってくれたか! 俺に任せろ。死ぬほど気持ちよくしてやるぞ。今なら洩れなく、俺の魂の半分と愛の告白つきだ」 氷河のからかうような口調に、瞬がくしゃりと顔を歪める。 「結構です!」 「瞬、恥ずかしがらなくていいんだぞ。うるさい監視役は遠い日本の空の下だし、今夜は二人きりで過ごせる最後の夜だ」 「遠慮します !! 」 早足で先を急ぎ出した瞬を、氷河がいつものように追いかけ、追い討ちをかける。 「なあ、瞬。昼間、あんな激しいシーンを散々見せつけられたんだ。今夜は、いくらおまえでも、一人で心安らかに清らかな夜を過ごすのは無理な話だと思うぞ」 「ど……どういう意味ですか、それ!」 「だから、おまえが変な妄想に苦しんだりしないように、俺が朝までおまえについていてやろうと……」 氷河の軽口はそこまでだった。 ぱっしーん! と、夜の澄んだ空気の中に、平手打ちの音が響く。 足を踏まれるくらいの覚悟はしていたが、さすがにここまでとは思っていなかった氷河は、思わずその場に立ち止まってしまったのである。 「氷河のばかっっ !! 」 怒りに涙をにじませた瞬が、無粋な男を大声でなじる。 それから、瞬は、氷河に追いかけてくるのを許さないスピードで、その場から駆け出した。 後に残された氷河は、予想以上に力のこもった瞬の平手打ちに、溜め息を洩らしてしまったのである。 「ばか……と言われてもなぁ……」 氷河としては、この場合、こうするしか仕様がなかったのだ。 今ここで真剣に迫っていたら、瞬は氷河の手に落ちていたかもしれない。 それこそは、氷河の長年の望みでもあった。 だが――。 その時、瞬が、“氷河”の上に“ユーグ”を重ねないと言い切ることができるだろうか。 瞬の中には未だ、オック語を操る八百年前にこの世界を生きていた少年の心が もし本当に、あの少年が瞬の前世の姿で、ユーグが氷河の前世の姿だったのだとしても、氷河はあの二人の恋を実らせるために瞬に恋をしたのではなかったのだ。 「……まあ、いいさ。これまで待ち続けたんだ。堅忍の時間が少々延びたところでどうということは……」 ――ないのだろうか? 自分に自信を持てないまま、氷河は、中世という時代に生きた二人の恋人たちをむしろ羨ましく思った。 ヨーロッパ中世。 飢餓や疫病や戦争のために、今よりもずっと、死が人々の身近にあった時代。 そんな時代だったから、与えられた時間の短いことを誰もが知っている時代に生きた二人だったから、ユーグとシュンは、あれほど短い時間に激しい恋に落ち、ためらい迷う時間を惜しんで、情熱の全てを注ぎ、愛し合うことができたのではないだろうか。 中世に生きたユーグとシュンと、現代に生きている自分たちのどちらが幸福だと言うことはできない。 あの二人が不幸だったと、現代の人間が言うのは、確かに傲慢なことなのだ。 瞬の姿が見えなくなるほど遠ざかると、氷河はゆっくりとカルカソンヌの城塞都市を振り仰いだ。 巨大な中世の fin.
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