両親を亡くした時から、他に肉親のなかったレウキッポスは、テッサリアの河の神ペーネイオスを祭る神殿の奥に一室を与えられ、そこを生活の場にしていた。
テッサリアでは、家族のない者は、妻を得て新しい家庭を作る時、初めて家を構える権利が与えられることになっている。
ダフネに拒まれ続けていたせいで、レウキッポスは未だにその権利を得ずにいた。

レウキッポスがいるはずの神殿に駆けつけたダフネは、その入口でレウキッポスの友人たちに出会った。
「ダフネ! 今年もまたレウキッポスを袖にしたんだって? レウキッポスの奴、すっかり落胆していたぞ。どうせレウキッポス以外の男に目を向けるつもりなどないくせに、どうしてあんなに おまえだけを思っている男を拒み続けるんだ」
「レウキッポスはどこ !? 今すぐ会わなきゃならないの!」
「ダフネ……?」
何かに急きたてられているようなダフネの様子を訝りながら、尋ねられた友人は、周囲を見渡した。
「さっきまでこの辺りで落ち込んでいたんだが──神殿の中にはいないはずだ。たった今、俺たちも祭祀長殿に追い出されてきたところなんだ。大事な祭事があるらしい」
「ありがと。近くを捜してみる!」

そう言って、ダフネが再び その場から駆け出そうとした時、神殿の奥から転がるように走り出てきた者がいた。
それは、たった今 レウキッポスの友人たちを神殿から追い出したという、河神ペーネイオスを祀る神殿の祭祀長で、彼は階段の下にダフネの姿を認めると、白髪の老人のそれとは思えない勢いで 階段を駆けおりてきた。

「ダフネ! ちょうどよいところに! さあ、こちらへ来なさい。大変なことになった」
「大変なこと? レウキッポスがどうか?」
反射的に尋ね返したダフネの腕を、祭祀長が掴まえる。
「それどころではない。テッサリアの国の重大事なのだ」
言うなり、祭祀長は、有無を言わせぬ力で、ダフネを神殿の奥に引っぱっていこうとした。
訳がわからぬまま、それでもダフネは彼に為されるままでいたのである。
年老いた祭祀長はペーネイオス神殿の管理者であり、テッサリアの都の孤児たちの養育と若者たちの教育を一手に引き受けている教師でもあった。
レウキッポスにとって、この祭祀長は保護者のようなものであり、彼は またダフネたちの教師でもあったのである。

「祭祀長様、何があったんです」
訝るダフネを、祭祀長は神殿の巫女たちの手に委ね、ダフネには何も答えず、またそそくさと どこかへ走り去ってしまった。
祭祀長からダフネを委ねられた巫女たちも、ダフネには何も教えてくれなかった。
彼女たちは、だが、自分たちがすべきことは心得ているらしく――ダフネの困惑と抵抗を数の力で押さえつけ、彼女たちが(おそらくは祭祀長に)命じられていた仕事にとりかかった。
神に仕える巫女たちに強く抵抗するわけにもいかなかったダフネは、結局 彼女たちの手で身体を清められ、王女や王后にしか身に着けることの許されないような絹の衣装を その身に まとわされてしまったのである。
ダフネのその姿に溜め息を洩らす巫女たちに、ダフネは再度 事情を尋ねたのだが、彼女たちは やはりダフネには何も教えてはくれなかった。

ダフネは、そして、巫女たちに促され、ペーネイオス神の祭壇の前に連れていかれたのである。
祭壇の横に、祭祀長が立っていた。
「おお、これは確かに美しい。これまで気付かずにいたのは迂闊だった」
「祭祀長様、これは何の真似です。こんな裾の長い鬱陶しい衣では走ることもできないではありませんか」
ダフネは苛立ちながら絹の長衣の裾を払った。
祭祀長がその様を見て、少しく顔を歪める。

「ダフネ、もう少し しとやかにできないのか。そなたはこれよりペーネイオス神の娘として振舞わなければならないのだぞ」
「え?」
驚いて瞳を見開いたダフネに、祭祀長が重々しい声で告げる。
「我等が神ペーネイオス様より有力な神が、そなたをお望みなのだ。より有力な神の庇護を受けることで、我がテッサリアは一層の繁栄を約束されることになるだろう。ダフネ、そなたはテッサリアの誇りだ」
「……」

自分の知らないところで何が起こっているのか、ダフネにもようやく わかりかけてきた。
「本当ならもっと時間をかけて準備をし、もっと美々しい衣装でそなたを飾ってやりたかったのだが、アポロン様は一刻も早くそなたと愛を交わしたいとおっしゃる。これが初めての恋なのだとおっしゃる。そのお気持ちに沿うよう努めるのは、我等人間の義務であろう。そなたは、我が神ペーネイオスの娘として、アポロン様のご寵愛を受けるのだ」

ふと気付くと、いつのまにかその場に、大神ゼウスの息子の姿があった。
ダフネには信じられなかったのである。
レウキッポスヘのダフネの思い、ダフネヘのレウキッポスの思いを、これまでいつも優しく見守ってくれていた祭祀長のこの振舞いが。
神とは、それほどまでに偉大なものなのだろうか。
人は、その心を曲げてまで、神の意に沿わなければならないものなのだろうか。
ダフネは、アポロンの視線と手から逃れるため、後ずさりを始めた。
アポロンは、薄い笑みを浮かべ、そんなダフネを見おろしている。

「そなたには、こんな神殿の中よりも緑の草のしとねの方が ふさわしいとは思ったのだが、なにしろ、そなたは神の前で人間がどれほど無力なのかということに無知なようだったのでね。私の望みを拒むことなど、そなた以外の人間は考えない。それが当たり前のことなのだよ。愚かで可愛いダフネ」
言うなり、アポロンはダフネを抱きあげた。
普段身に着けたこともない絹の衣の長い裾を思うに任せず、ダフネは傲慢な若い神の腕から逃げるために駆け出すことさえできなかった。
獲物を捕らえた神の腕の中でダフネがもがくにつれ、長い髪に編み込まれていた真珠の粒が床に飛び散る。

「祭祀長様! 祭祀長様、ダフネはレウキッポスを愛しています! ダフネをレウキッポス以外の誰かの手に渡さないでください! 祭祀長様、お願い、私を助けて!」
傲慢な神の心は動かせなくても、あの優しく思い遣りに溢れた祭祀長の心なら動かせるかもしれないという一縷の望みにすがって、ダフネは泣き叫んだ。
しかし、そんなダフネの哀願に耳を傾けもせず、それどころか祭祀長は重々しい青銅の扉をアポロンのために恭しげに押し広げていた。
祭壇の奥にある、本来ならペーネイオス神の休息のために用意されている部屋に続く扉を。

その部屋には神だけに使うことの許された、そして、今まで一度も使われたことのない寝台があり、寝台の周囲には露を含んだサフランの花びらが撒かれていた。
「放して! 放してください! どうしてこんな馬鹿げたことをなさるんです! 私はレウキッポスのものなんです。そう言ったでしょう!」
両腕をアポロンに抑え込まれ、もがくほどに長衣の裾が乱れていく。
これまで平気で人目にさらしていた脚も、アポロンの視界の内にあると思うだけで、ダフネは耐え難い侮辱を受けているような気持ちになった。
「この聖婚の場で、まったく元気のいいお姫様だ。私の愛を受けとめた後は、できれば素直で愛らしい恋人になってほしいものだな」
ゼウスの息子が、まるで子供をあやすようにそう言って、ダフネに身体を重ねてくる。
その重みのおぞましさに、ダフネは叫び声をあげた。

(レウキッポス……! レウキッポス、私、こんなことのために生まれてきたんじゃない! 私は、レウキッポスのために、レウキッポスと同じ時、レウキッポスのいる場所に生まれてきたのに……!)
懸命に神を引き離そうとするダフネの腕を掴みあげ、アポロンがダフネの頬に唇を寄せる。
「そんなに涙を流すことはない。そなたを恋しているあの若者のことを思っているのなら、それも無用のことだ。彼は既に死んでしまっているのだから」
(……!)

思いもよらないアポロンの言葉に、ダフネは、涙でいっぱいになっていた瞳を見開いた。
残酷な色のアポロンの瞳が、愉快そうにダフネの顔を覗き込んでいる。
「あの若者が生きている限り、そなたはあの若者のものだと言ったのを、私が忘れたとでも思っていたのか? ゼウスの息子の恋敵が ただの人間だなどと、笑い話にもならない。私の弓は巨竜デルピュネをすら一撃で仕留めることができるのだ。あの若者は、あっけなくその血を大地に吸わせてしまったよ」

(死んだ……? レウキッポスが……?)
「だから、あの若者のことなど、もう気にかける必要はない。そなたは私だけのものだ」
あまりのことに放心しかけたダフネの身体を、猛々しいものが貫く。
途端に、屈辱も怖れも痛みも――すべての意思と感情がダフネの内から遠ざかっていった。
そうして、脱け殻になってしまったようなダフネを、アポロンは思う様 陵辱し続けたのである。

アポロンにとって、その行為は偉大な神の聖なる婚姻だったのかもしれないが、ダフネにしてみれば、それは無謀な力で幾度も刺し殺されているようなものだった。
心がどこかに消え失せてしまったダフネの身体が勝手に反応を始め、彼女を刺し殺そうとするものを、逆に締め殺そうとする。
アポロンはダフネのその身体を喜び、いつまでもダフネを解放しようとはしなかった。






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