(あれ……エンデュ?)
平生なら陽が傾き始めてからでないと外に出てこないエンデュミオンの姿を、バルコニーの手擦り越しに見掛けたシュンは、手にしていたリュートを脇に放り投げた。
(朝は苦手だって言ってたのに、どうしたんだろ)
朝といっても、既に太陽はほぼ中天にあり、昼近い。
それでも、この時刻に外を散策しているエンデュミオンを見るのは、シュンはこれが初めてのことだった。
(どこ行くのかな……?)
少し迷ってから、シュンはエンデュミオンを追いかけることにした。
いちいち階段の方に回るのも面倒だったシュンが、そのままバルコニーの手擦りを乗り越えて、中庭に飛びおりる。
長い髪が邪魔だと、着地の際にシュンは思った。

(切っちゃおうかな。ヘリオスも怒んないよね。走るのに邪魔なんだもの……)
それは、ここ数百年間 考えもしなかったことだった。
永遠を生き始めてから数百年の間、何かを追いかけて急ぐということを、シュンはしたことがなかったから。
ヘリオスは、シュンにとって追いかける必要のないものだった。
気が付くと側にいて、シュンを見詰めている存在――それが、シュンにとってのヘリオスだったのである。

(ナイアデスの泉の方……かな。あそこ、いつも静かで涼しいから)
シュンは、ヘリオポリスを囲む森を抜け、その向こうにある泉に向かって駆け出した。
その時々の天候と気温で、エンデュミオンがどこに足を運ぶのか、そのおおよそのところをシュンは既に把握してしまっていた──そのつもりでいた。
「エンデュ! いないんですか?」
ナイアデスの泉まで来て、だが、シュンはその近くでエンデュミオンの姿を見い出すことはできなかったのである。
代わりに、シュンは、そこでヘリオスに会った。

「ヘリオス……」
滅多に神殿の外に出ないヘリオスが、漆黒の瞳で、泉の向こう側の木立ちの陰から、シュンを見詰めている。
「あ……」
その時シュンは、決してありえない――あってはならない感情に支配された。
無言で自分を見詰めているヘリオスを、シュンはなぜか恐いと思ったのである。
「ヘリオス……?」
泉の岸に沿ってヘリオスの側に歩み寄り、シュンがその瞳を見あげた時――その時にはもう、ヘリオスの眼差しはいつもと変わらず穏やかで、シュンを慈しむような温かさしか宿していなかったが。

「ヘリオス。どうしてこんなとこにいるの? 神殿の外に出るの、あまり好きじゃないのでしょ?」
いつものヘリオスの眼差しをそこに見い出して、少し安心したシュンが、ヘリオスに尋ねる。
ヘリオスは静かに微笑して、首を横に振った。
「外に出るのが嫌いなわけではない。セレネたちが来るまで、おまえは神殿の内に閉じこもりがちだったから、私も外に出ようとは思わなかっただけだ。最近おまえは昔のように外に出ることが多くなったから──光の中のおまえを見たくなった」
静かな口調でそう言って、ヘリオスがシュンをその胸の中に抱き寄せる。
ヘリオスに抱きしめられながら、シュンは彼の胸の中で瞬きを繰り返した。
「最近、おまえは明るくなった。昔のように──生き生きして、感情が豊かで、可愛いらしくて――エンデュミオンのせいか? 人間には、やはり人間が必要なのか……」
「ヘリオス……」

ヘリオスの囁きに、シュンの胸は針で刺されたような鋭い痛みを覚えたのである。
ヘリオスが人間ではないことも、それゆえに 彼が人間としてのシュンの苦しみを理解しきれないことも、ヘリオスのせいではない。
エンデュミオンの側にいることを幸福だと感じてしまう自分に、シュンは罪悪感を覚えた。
「ヘリオス、ごめんなさい……。でも、ヘリオスのせいじゃ……あ……」
ヘリオスが、唇をシュンのそれに重ねて、シュンの言葉を遮る。
そのまま彼はシュンの身体を抱き寄せ、もう一方の手でシュンの背をなぞり始めた。
ヘリオスが何を求めているのかを悟って、シュンは少しく戸惑ったのである。

「ヘリオス……」
ヘリオスの唇が喉を辿り、肩や胸におりてくる。
愛撫の手がシュンの脚にのび、そうしているうちにシュンの身体は小刻みに震えてきた。
重心のありかが わからなくなり、それ以上 自分の力で立っていることができず、シュンは身体の力のすべてをヘリオスに委ねることになった。
それを受けとめながら、ヘリオスが、更に深くシュンの内に指を這わせてくる。

泉の水面が森の あらゆる音を吸い込み、静寂だけが満ちている空間に、シュンの息使いと、時折り洩れる微かな喘ぎ声だけが、不思議なほどはっきりと響き渡っていった。
緑の下草の寝台に横にされ、ヘリオスの熱を持った指の愛撫に翻弄されるシュンの上に、だがヘリオスは一向に身体を重ねてこない。
耐えきれず身悶え、声をあげたシュンを背中から抱きしめるようにして、ヘリオスはシュンの身体を自分の膝の上に引き起こした。
まるで全身の力を失ってしまったようなシュンを、力強い腕で抱きしめて、ヘリオスはそのままシュンと一つになり、シュンは、ヘリオスによって与えられる背筋を突き抜けるような快感に、きつく目を閉じた。
ヘリオスの熱を身体の奥に感じながら、その熱さに酔い、間断なく声をあげながら、シュンは、以前にもこんなことがあった──と、脳裡の奥で考え――否、感じていた。

身体を交える時にはいつでも、喘ぎ啜り泣くシュンの表情を見ていたがるヘリオスが、以前にも幾度かこんなふうにシュンを背中から抱きしめ、繋がろうとしたことがあった。
巧みに熱くシュンを愛撫し泣かせながら、決してシュンのまとっているものを引きはがそうとせず、それでいて、いつもより深く激しく繰り返しシュンを責めたてたことが──。

あの時は、アポロンがヘリオポリスを訪れていた。
ヘリオスに抱かれながら、シュンはアポロンの視線を感じていた。
(アポロンが来てるの……?)
そんなはずはないと判断するのに、シュンはかなりの時間を要した。
否、それも判断ではなく、そう感じただけだったのかもしれない。
(エンデュが近くにいるんだ……!)
その考えが脳裡に浮かび、それはすぐ確信に変わった。
だからといって、シュンに何ができるというわけでもなかったのだが。

「ヘリオス、いや……どうして……」
ヘリオスの腕の中でシュンは身悶えたが、ヘリオスは無論シュンを解放してはくれなかったし、シュンもまた、自分の喘ぐ声を抑えることはできなかった。
恥ずかしさに熱くなり朦朧とする意識の中で、シュンは必死に思考の糸をり合わせようとしたのである。
なぜ ヘリオスがそんなことを企てたのかが、シュンにはわからなかった。

(どうして……? ヘリオス……?)
答えを導き出すにはあまりにも──あまりにも、シュンの身体は熱くなりすぎていた。
心の中で『どうして』と繰り返し問いかけること以外何もできず、そうして結局シュンは、身体の意思も心の意思もすべてをヘリオスに絡め取られてしまったのである。






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