(この人は――)
神と人間が 互いの瞳を互いに正面から見詰め合う。
そうして、シュンは、その時になってやっと気付いたのである。
ゼウスの眼差しが冷たいのは、力を持つ者の驕りや残酷な性質の現われなのではなく、すべてを見極める力によって諦めしか得ることのできなかった絶望のゆえなのだということに。
力の劣った神、人間に近付きすぎてしまった神、そして、神ならぬ身の人間たちが、希望と喜びに輝いていられるのは、ゼウスのように絶大な力を持たないせいなのかもしれない。
ゼウスの姿が青年の若さを体現していないのも、その力の強大さゆえなのかもしれない――。
冷めた眼差しは、勝ちすぎた理知の証なのだ。

「私は――」
ゼウスが再び言葉を発する。
感情の感じられない、そして、その声音の裏にどれほどの思索が重ねられてきたのか想像もできない――そんな声だった。
「私は、そなたが神に救いを求めることなく、このオリュンポスに辿り着けたなら、そなたの願いを叶えてやろうと決めていた──のだが」
「あ……」
ゼウスの探るような視線に、シュンは内心慌ててしまった。
ヘリオポリスを出てからこれまでの旅の間、シュンは、エンデュミオンの名を呼んだのと同じくらい、ヘリオスの名を呼んでもいたのだ。

「僕は……! 僕は救いを求めたんじゃなくて、ただ、自分を励ますためにヘリオスの名前を口にしただけです。他の神ならともかく、ヘリオスを――ヘリオスの心を裏切ろうとしている僕が、ヘリオスに救いを求めるなんて、そんなことは ありえない!」
「言い訳はいらぬ。そなたが、神としてのヘリオスを呼んだのではないことはわかっている。そなたは、ほとんど自分の機転だけで旅の難を逃れてきたし、私があの獣をそなたの許に送らなかったなら、おそらく無事にオリュンポスに着いてしまっていただろう」
どうやらあの黒い獣は、シュンを試すためにゼウスが送ったものだったらしい。
シュンは、ほっと息を洩らした。

「それはどうかわかりません。でも、僕は、たとえ何が起こっても、神に救いを求めるようなことはしなかったと思います」
「……」
ゼウスは、それについては何も言わなかった。
長い旅の間に砂と埃にまみれ 擦り切れた衣装、永遠を厭い、死を覚悟しているにも関わらず太陽よりも輝いているシュンの瞳――を、無言で見詰めていたゼウスは、しばらくしてから、低い声でシュンに告げた。

「そなたがヘリオポリスを出てすぐ、そなたの望むことを望むという者が、この神殿を訪れた。その者が、そなたと同じことを言った。そなたは決して神に救いを求めるようなことはせぬから、そなたを試すのはやめて、そなたの旅を終わらせろと。一人きりで旅を続けるそなたを見ていられなかったらしい」
「あ……もしかして――エンデュ……?」
そんなことを断言してしまえる人間を、シュンはエンデュミオン以外に知らなかった――思いつかなかった。
では、エンデュミオンも、そして おそらくはヘリオスも、シュンが何のためにヘリオポリスを出たのかを知っているということになる。
シュンは、ゼウスの前で、狼狽を隠すことができなかった。
途端に、エンデュミオンの声が背後から響いてくる。
「自分で考えて自分の存り方を決めるのはいいことだが、導き出した答えを報告して、人の助言や意見を受けるってことは、もっと重要なことだぞ。オリュンポスまで一人きりで旅をしているおまえを見ているしかないなんて、心臓に悪すぎる」
「エンデュ……」

声の主は、シュンが思った通り、エンデュミオンその人だった。
ほんの1、2ヶ月間 会わなかっただけなのに、そして、その時間は永遠とは比べものにならぬほど短い時間だったというのに、シュンは、彼の姿をひどく懐かしい気持ちで見詰めることになった。
「エンデュ……どうして……」
その先に続く言葉を察しているらしく、エンデュミオンは少しく険しい表情で、戸惑うシュンの側へと歩み寄ってきた。

「おまえが何を考えているのかくらい、わかる。『ヘリオスを傷付けることはできない。代価を支払うのは自分。エンデュミオンのことはどうでもいいから、放っておこう』。そんなところだろう」
「どうでもいいだなんて! 僕は、エンデュのことを勝手に決める権利なんて持ってないし、エンデュは自分のことは自分で決める人だから、だから……」
「ヘリオスの生き方を決める権利も、おまえは持っていないだろう」
「でも、これは……ただ元に戻すだけだもの。一度だけなら……ヘリオスも僕の人生を一人で決めたことがあるもの。一度だけなら、僕が我儘言っても、きっとヘリオスは……」
ヘリオスが、自分の我櫨を許してくれるとは思えなかった。
それくらいならヘリオスは、シュンをエンデュミオンに渡してでも シュンを忘れるつもりなどない――と言うだろう。
だが、それがわかっているからなおさら――なのである。

「シュン……」
シュンがそんなふうに 理屈の通らない我儘を言い張るのは、おそらく―― 十中八九、シュンがヘリオスを自分に近しい存在だと感じているである。
そう思うと、エンデュミオンは不快感を覚えずにはいられなかった。
「なぜ そんなふうに――なぜ、おまえは、おまえ自身のために、俺のために、我儘になってくれないんだ。ヘリオスなんか放っておいて、俺に抱かれればいいだけのことだ。おまえを失うくらいなら、ヘリオスはそれくらい耐えるだろうし、俺もおまえと一緒なら永遠にも耐えられる。おまえも……そうだろう?」
シュンの決意に憤っているようで、その実、エンデュミオンの言葉は懇願だった。
シュンが首を横に振り、それからゆっくりと顔を伏せる。

「――そんなこと、できるわけがない。僕が今ここに存るのは、ヘリオスが太陽神としての神格を捨てて、僕に永遠をくれたからだもの。心は……心なら全部エンデュにあげられるけど、僕の身体はヘリオスのものだもの。ヘリオスがいなかったら、僕はとっくに土に還っていたはずなんだもの」
「馬鹿なことを言うな。心も身体も、おまえのものはおまえのものだ」
エンデュミオンが、シュンのすぐ前に立つ。
シュンは エンデュミオンの瞳を見上げ、そして、すぐにまた その瞼を伏せた。

「もしそうだったとしても――だからってエンデュに抱きしめてもらったら、きっと僕の心はヘリオスを思って苦しむよ」
心と身体が全くの別物だったなら、こんな苦しみはなかったのかもしれない。
その二つは、だが、現実には、互いに絡み合い影響し合って存在していた。
「僕が、限りある命の人間だったら、きっと耐え続けられたと思う。ヘリオスに抱かれながら エンデュを思うことと、エンデュに抱かれてヘリオスヘの罪悪感に苦しむこと――その どちらを選ぶにしても、きっと耐えられた。だって、その苦しみも喜びも、いつかは終りがくるってわかってるんだもの。でも、永遠には耐えられない。今のままでいたら、きっと僕は気が狂ってしまう。だって、僕は……僕の心や身体はエンデュを求めているのに、僕の心と身体はヘリオスに より強く結びついているんだ。これまでヘリオスと二人で過ごしてきた長い時間が、僕をそんなふうにしてしまったんだ。ヘリオスが側にいて、僕を見守っていてくれないと、僕、不安で、エンデュに恋してもいられないと思う。僕……」

シュンは、エンデュミオンのために、精一杯正直に自分の気持ちを伝えようとした。
告げられたエンデュミオンが、きつく唇を噛む。
エンデュミオンがつらいのは、自分よりシュンの方が つらい思いに耐えているのだということがわかるせいだった。
シュンが苦しんでいることが、エンデュミオンの心をも苦しめていた。
「そんなふうに涙を浮かべているおまえを抱きしめてやることも、俺にはできないのか。そんなことすら、おまえは俺に許してくれないのか」
責める口調と懇願の色、苦しんでいるようで、その実、拗ねることを楽しんでいるような――そんなエンデュミオンの声音の裏にどんな決意があるのかを、シュンは感じ取り始めていた。
彼は、シュンと同じ道を選ぼうとしている――。

「僕、大丈夫だよ、一人でも。苦しいことも切ないことも、それは僕のものでしかなくて、僕が自分で耐えるべきことなんだから。エンデュに慰められたりしたら、僕、もっと泣いてしまう」
エンデュミオンは、シュンがやっと気付いてくれたことを知り、シュンのために微笑した。
そして、シュンのために、わざと軽い口調で言う。
「――おまえは少しも俺のことを考えてくれないんだな。おまえを失って、一人で永遠を生きていかなければならなくなったら、俺の方こそ気が狂ってしまう。一緒に“永遠”を終らせようと言ってくれればよかったんだ。俺の命は俺のものだし、俺のすべてを決めるのは俺自身だが、俺はもう、おまえなしでは生きていけそうにない。だから、セレネにここに運んでもらった。おまえがここに来て、ゼウスに告げる望みと同じことを、俺も望むと決めて。そうしたら、ゼウスの奴が――」
旅の行程の中でシュンが神に救いを求めなかったなら、その望みを叶えてもよいと、ゼウスは条件をつけてきたのだろう。

ゼウスごときに――憎しみは薄れたとはいえ、エンデュミオンにとっては父の命を奪った神に――そんな条件を突きつけられて、彼は不愉快の極みだったに違いない。
エンデュミオンは、忌々しげに舌打ちをした。
「エンデュ……で……も……」
エンデュミオンの心を知ってなお、シュンの中には ためらいと戸惑いがあった。
微かな望みを抱いてはいたが、結局のところ、シュンが望んでいるのは“死”なのである。
死という保証のない冒険に身を投じることを、エンデュミオンにまで求めるなど、シュンにはできそうになかった。

シュンのためらいを見てとり、エンデュミオンが言う。
「もし、俺の心と身体がおまえのものだったなら、おまえはそうしようとしただろう? おまえに俺のすべてを決する権利があったなら、おまえは、俺にだけ“永遠”という苦しみを背負わせてはおかない」
「……」
それは確かにその通りだった。
永遠の中に取り残されるのが、もし自分の方だったなら、自分はそんな状況にはとても耐えられないだろうと、シュンは思っていた。
だが、エンデュミオンの命はエンデュミオンのものである。
共に“永遠”を放棄してくれと彼に言うことは、シュンにはできなかった。

「だ……って、言えなかったもの。僕が僕の永遠を終らせようって決めたのは、僕が弱いからだもの。エンデュにはセレネ様がいるし、セレネ様を一人ぼっちになんて、エンデュはしちゃいけないんだもの」
「弱い、ね。俺とヘリオスの両方を突き放してしまえるほどに?」
皮肉げに、エンデュミオンが唇の端を歪ませ、冷めた目をシュンに向ける。
シュンは、思いがけないエンデュミオンの態度に驚き、慌てた。
今にも泣き出しそうな目をして、半ば叫ぶように、エンデュミオンにすがる。

「違うよ……! 僕はもう一度エンデュに会うために――今度こそ、自分のすべてを自分で決める権利を持った一人の人間としてエンデュの前に立つために、こうしようって決めたんだ……! だって、僕、エンデュが――エンデュを好きだって、世界中の誰に対しても堂々と宣言できるような僕になりたかったんだもの……!」
シュンの叫びを、おそらくエンデュミオンはひどく心地良い気分で聞いていたに違いない。
彼はふっと表情を和らげ、肩にも届かないほど短くなってしまったシュンの髪に、からかい 愛撫するように指を絡ませてきた。

「なら、俺も同じ賭けに乗る。レウキッポスはムネモシュネーに会えた。エンデュミオンとしての生が終わっても、それこそ時間は永遠にあるんだから」
「エンデュ……」
エンデュミオンの先程の冷たい目は、頑なな恋人の真意を知るためにわざと作ったものだったのだと、シュンが悟る。
同時にシュンは、レウキッポスが何者なのかということを――むしろ、エンデュミオンが何者なのかということを――理解した。
俯くように頷いて、シュンはエンデュミオンに小さな声で囁いた。
「ダフネもエンデュミオンに会えたよ……」
口をついて、知らないはずの少女の名が出る。
もう、その時を待つしかなかった。
互いの魂が強く呼び含っていれば、二人は 必ず もう一度出会うことができるに違いない。
その時を、どうしてもシュンは手に入れたかった。






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