- 氷河と瞬 II -






「……氷河、何ですか、これ」
目の前に突き出されたチューベローズの花束を見て、瞬が顔を歪める。
「見てわからないのか? これは花というものだ。おまえをデートに誘おうと思ってな」
城戸邸の中庭に張り出したテラスのテーブルで、日向ぼっこを兼ねながら雑誌のページを繰っていた瞬は、その言葉を聞いて、じろりと氷河を横目で睨みつけた。

瞬の大きな丸い瞳で睨まれても、それはただ可愛いだけで全く威圧感は感じないのだが、これからデートに誘おうとしている相手に機嫌を損ねられるのは、あまり好ましい事態ではない。
だが、氷河には、瞬の可愛らしい強面こわもての訳が全くわからなかった。
それを察したらしく、瞬が本のページを閉じて、掛けていた白い籐椅子ごと氷河に向き直る。

「氷河。氷河は、花言葉というものの存在を知っていますか」
「あまり、付き合いはないな」
「そうでしょうとも!」
瞬が、今度はぷっと頬を膨らます。
それも結局は可愛らしいだけの仕草で、氷河は、瞬のお怒りの訳を承るための神妙な顔を保ち続けるのに、ひどく苦労した。
「少し勉強し直してきてください。ああ、もう、氷河がこの花を買った時、花屋さんに何て言ったのか、簡単に想像できますよ。『適当に値の張る花で花束を作ってくれ。予算は2万円』! どうです。違いますか」
「……当たり」

瞬が、どうやらこの乳白色の花の花言葉が気に入らなくて怒っているらしいことは推察できるのだが、贈られた花束の値段までぴたりと言い当ててしまうあたり、瞬にも今ひとつ浪漫的とは言い難いものがある。
氷河は、無論、そんな意見を瞬に告げて、更に瞬の不興を買うような愚は犯さなかったが。
「しかも、初めてデートに誘う相手にチューベローズだなんて! 教えといてあげますから、覚えといてください。チューベローズの花言葉は『危険な快楽』。そういうのがお望みだったら、この花は、アフロディーテさんとかジュネさんとか、もっとエキセントリックな方々に差しあげた方がいいですよ。僕には、この花を喜んで受け取る資格はないようですから」
自分だって、チェーンは振り回すわ、聖衣はピンクだわで、十分エキセントリックではないか──とは、もちろん氷河は言わなかった。
彼は別方面からの言い訳を、瞬に試みることにした。

「そんなこと言ったって、花の種類なんか腐るほどあるんだぞ。その花言葉を すべて いちいち覚えていられるか!」
「別に、花言葉を全部覚えろなんて言ってるわけじゃありません。でも、自分が贈ろうとしている花の花言葉くらい確かめておいた方がいいに決まってますよ! 氷河なんか、医者が宣告を避けてるような末期癌の患者さんに、がまずみの花くらい贈りかねないもの」
瞬は 氷河の言い訳に理を認めてはくれなかった。
氷河が当惑した面持ちで、瞬にお伺いをたてる。
「がまずみの花言葉──ってのは何なんだ?」
「『愛は死に勝る』!」
「む……」

確かに、贈られた患者が深読みするタイプの人間だった場合、それは非常にまずいことになりそうな花言葉である。
氷河が反駁できずに言葉を詰まらせると、瞬と同じテーブルでモーター雑誌を眺めていた一輝が、ついに我慢ができなくなったのか、低く短い苦笑を洩らす。
瞬しか目に入っていなかった氷河は、その時になって初めて、そこに一輝がいることに気付いた。
瞬になら、責められようがいじめられようが心地良いだけであるが、瞬の兄に馬鹿にされるのは、ひたすら不快なだけである。
ムッとして、氷河は一輝を睨みつけた。

「花言葉なんてそんなもの、貴様だって知らないだろーが! 俺を笑える立場か」
値段で条件をつけずに、瞬の好きな花を選ぶとか、せめて『綺麗な花を』とでも言っていたなら、ここまで瞬の機嫌を損ねずに済んだのだということは氷河にもわかっていたのだが、今更そんなことを悟っても手遅れというものである。
本来なら自分自身に向けるべき怒りを、氷河は、つい一輝に向けてしまっていた。
突然お鉢を回されてしまった一輝が、また薄く笑う。
「だが、おまえのようなドジは踏まないさ」
「花を贈るなんてことを考えるだけの情緒の持ちあわせがないわけだ」

瞬の前で、一輝にバカだのドジだののレッテルを貼られてしまうわけにはいかない。
氷河は一輝を鼻で笑ってみせた。
一輝が、気を悪くした様子もなく、ちらりと氷河を見やる。
それから 彼は、おもむろに腰掛けていた椅子から立ちあがると、城戸邸の庭園を飾る花壇をぐるりと見渡した。
その片隅にひっそりと咲いている薄紫の寂しげな花を手折り、一輝が瞬の許に戻ってくる。
ぽかんとしている瞬の目の前にその花を差し出し、一輝は言った。
「おまえと、おまえに愛される何者かのために」

思いがけないこの展開に目を丸くしながら 微かに頬を染めて、瞬が 兄の手からその花を受け取る。
「ありがとうございます。兄さん」
受け取った花を、口許をほころばせて見詰める瞬を見て、慌てたのは氷河である。
「お……おい、瞬、それは何だ? 俺の時とは随分対応が違うじゃないか! そんな地味な花のいったいどこが……!」
物言いをつけてくる氷河に一瞥をくれ、瞬は、きつい口調で彼に説明してやった。
「これはヘリオトロープの花! 花言葉はね、『愛よ、永遠なれ』!」
「……!」
氷河が思わず言葉に詰まる。
一瞬、『負けた!』と彼は思った。

「い……一輝、貴様、よくそんなこと知っていたな。だ……惰弱の極みだぞ」
なんとか気を取り直し、それでもどこか力の抜けた声で、一輝にささやかな攻撃を試みる。
一輝に向けた攻撃が、そのまま瞬を貶める言葉になっていることに気付きもしないほど、氷河は驚愕を引きずっていた。
まさか、この手のことで、自分が一輝に後れを取ることがあるなどということを、氷河は考えたこともなかったのだ。

「安心しろ。それしか知らん」
特に勝ち誇った様子も見せず、一輝は再び元の椅子に腰をおろし、兄から貰った花を嬉しそうに見詰めている瞬を見やった。
(愛よ、永遠なれ──か。いつかは死んでいく人間だからこそ、その言葉を美しいと思うこともできるわけだ……)
一輝の視線に気付いた瞬が、にこりと兄に微笑を返す。
二人のそのやりとりが癩に障ってならない氷河は、そこに無理やり割り込んでいった。

「で? おまえに愛される何者かってのは、当然、俺のことだな?」
他人の贈った花をネタに自分の失地を回復しようとする氷河に呆れ、瞬はつんと横を向いた。
「こんな馬鹿な花を贈る人が、よくそんなこと言えますね! 僕と氷河は、あまりに価値感が違いすぎるような気がします」

瞬の素っ気ない態度にも、無論、氷河はめげなかった。
「さほど違いはしないさ。俺がこの世でいちばんの価値を認めているのは、おまえという存在に対してだからな」
「ほら、違う! 僕がいちばんの価値を認めているのは、地上の平和と安寧です」
「だから、俺にとって最も価値のあるおまえが価値を認めているものは、当然、俺にとっても価値があることになる」
「そんな理屈がありますか。僕を殺せば地上に平和がもたらされるっていう時、氷河は、僕と平和のどちらを選ぶんですか」
「おまえ」
一瞬の迷いもなくあっさり答えた氷河を見て、瞬は、我が意を得たりとばかりに顎をしゃくった。

「ほらね! 全然僕と価値感が違うでしょ!」
得意げに 力強くきっぱり言い切ってしまってから およそ10秒後、瞬がぽっ と朱の色に頬を染める。
地上の平和より瞬の方が大事だという氷河の返答は、普通の恋人が普通の恋人に 戯れに囁く言葉としては 非常にありふれたものだったが、アテナの聖闘士には それは、決して軽い気持ちで言ってはならない重い意味のある言葉だった。
もちろん それは重大な責任放棄になりかねない問題発言ではあるのだが、その問題発言をしてのけた氷河の目にも声音にも 冗談を言っているような気配が全く感じられないということが、この場合は 最大の“問題”だったろう。

「ぼ……僕は、地上の平和が何より……あの……」
氷河の無責任を責めることもならず、だが、その言葉を喜ぶことは なおさらできず──瞬が真っ赤になって顔を伏せ、どもり始める。
瞬の そんな様子を見詰めながら、氷河は、ひどく嬉しそうに(瞬には ばれないように) 瞳だけで笑うことになったのだった。



そんなふうに平和にじゃれあっている二人を、一輝は無言で その視界に映していた。
(……確かに、前世のことなど憶えていない方が、人間は幸福になれるのかもしれないな)
氷河はこれまでの生に かなり後悔や未練があったらしく、ぼんやりと自身の前世を憶えているような節があったが、瞬は見事なまでに すべてを忘れて現在の生を生きている。
シュンは今、自分が望んだ通りの生を、自分が望んだ通りに生きているのだ。

ふと、一輝は、誰かの視線を感じて顔をあげた。
沙織が城戸邸の南の棟の2階のバルコニーから、テラスでじゃれついている瞬と氷河を見おろして、微笑んでいる。
彼女は、一輝が自分を見ているのに気付くと、何やら意味深な視線を彼に投げてきた。
一輝がすべてを明瞭に憶えているように、おそらく沙織アテナもすべてを忘れてはいないだろう。
そのことについて二人は話し合ったことはなかったし、自分がすべてを記憶していることを、一輝は誰にも気付かれぬようにしていたが。

一輝は空を仰ぎ、吐息した。
瞬と氷河の のどかな言い争いが続いている。
シュンを愛した記憶が残っているだけに、一輝は瞬が愛しかったし、抱きしめたいという気持ちも強かった。
だが、シュンを苦しめた記憶が残っているために、彼はそうすることができずにいた。
望めば何もかもを忘れることは可能なのだろうと思う。
瞬がすべてを忘れてしまっているように、氷河が微かにとはいえ 記憶を残しているように、すべてを決めるのは、人の心なのだ。

だが、一輝はどうしても、すべてを忘れたいと望むことができなかったのである。
幸福だった時、そうでなかった時──どんな時も、それは、一輝にとって、シュンと共に過ごした宝石のような時間だったから。
すべてを忘れてしまえる“人間”というものは恐ろしく潔い生き物だと、一輝は思っていた。
人間は、幸福になる術を心得た、実にたくましい生き物なのだ。

実際、神々が世界を支配する時は終わり、人間の時代が来た。
神という言葉、神という概念を持ちながら、神の力に頼らずに生きていこうとする人間が、今 この世界には溢れている。
シュンが“永遠”を捨てても取り戻したいと望んだ、限りある命を持つ存在。有限を積み重ね、永遠を形作っていくもの──。
そんな人間たちの世界の中で、瞬は今、光り輝くように自分の生を生きているのだ。

「ね、兄さん。兄さんは、自分の価値感の基準をどこに置いてます?」
氷河の食いさがりに困り果てた瞬が、兄に救いの手を求めてくる。
瞬の理想の兄を演じることは、一輝にはそう難しいことではなかった。
「おまえに関することでなら、おまえ自身の意思──とでも答えておくか。氷河への対抗上」
兄のその答えを聞いた瞬が、得意満面で氷河を振り返る。
「どうです、氷河。この百点満点の答え! 氷河もこう言ってくれれば、僕だって文句のつけようがなかったのに」

氷河は、瞬の得意そうな顔を見て、心底から嫌そうに顔を歪めた。
「おまえ、そのブラコン、早く治した方がいいぞ。一輝なんかより、俺の方がいい男だ」
「ふーんだ! 氷河が兄さんを超えてくれたら考えてみますよ!」
「悪いが、俺はおまえの気に入る男になるつもりはない。俺は、おまえを俺に惚れさせたいだけなんでな」
「氷河の言ってることは滅茶苦茶です!」

兄のいるところでそんなことを口にしてほしくなかった瞬は、立腹した振りをして、横を向いてしまった。
氷河が、その耳許に、低く囁く。
「なあ、瞬。いいかげん素直になれ。俺も、夢の中のおまえを抱くのには、そろそろ飽きた」
囁かれた瞬が、途端に大赤面する。
テーブルの上にあった雑誌を手に取ると、瞬はそれを氷河の頭に音を立てて叩きつけた。
「ひ……氷河なんか……氷河なんか好きになってたまるもんですかっ!」
「いて……おい、瞬!」
氷河が呼びとめるのも聞こえないかのように、瞬が怒り心頭に発した様子で掛けていた椅子から立ちあがる。
一瞬考え込んでから、一輝に貰ったヘリオトロープと氷河に貰ったチューベローズの花束を持って、瞬はさっさとテラスから邸内に戻っていってしまった。

それでもチューベローズの花を打ち捨てていかないところが、瞬の瞬たる所以である。
人を憎んで花を憎まず。
そして結局、人を憎みきることもできないのが瞬なのだ。
微かに苦笑を洩らして、氷河は瞬を追いかけた。
なんのことはない、瞬を一輝のいない場所に移動させるために、氷河はわざと瞬を怒らせるようなことを口にしたのである。
一輝のいる場所といない場所とでは、瞬の防御壁の厚さは百万倍も違う。
瞬を口説くなら、一輝のいない場所に限るのだ。

「待ってくれ、瞬」
「側に来ないでください! 氷河なんか、もう知りません!」
「悪かった! 謝る! な、瞬。今度から、おまえを口説く時は『清く正しく美しく』の路線を守るようにするから、機嫌を直してくれ」
「信用できませんっ! よりにもよって、兄さんのいるところで、あんなこと言うなんて!」
「一輝に聞こえてるわけないだろーが! おい、瞬! 瞬ちゃん!」

瞬と、妙に楽しそうに情けない男を演じている氷河の後ろ姿を見送ってから、一輝は、再び花壇の隅のヘリオトロープの花に目を向けた。
『愛よ、永遠なれ』
永遠を望むほどの愛を、これから瞬は いったい誰と育んでいくのか。
神という存在も人の力で変えられない運命もない人間の時代は、瞬がその答えを出すのに何の障害もない時代である。
唯一つ“死”という宿命を別にして。
何物にも縛られない自由な意思と素直な心で、瞬は答えを出すだろう。






Fin.






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