コンスタンティノープル市内を囲むメンティキオン城壁での戦いは熾烈をきわめていた。
アルヴィーゼは再び皇宮に戻ることなく 旅の仕度をし、翌日 再びオルセオロ邸を訪れた。
アルヴィーゼを迎えてくれたのは、一粒の真珠である。
もうオルセオロ補佐官やオリヴェロットと会う必要はなかった。
囚われの身になった時、それぞれがいつどんな経路を経てヴェネツィアに向かったのかをトルコに洩らしようがないようにするために。

「船の手配は済みました? 僕、船に乗るのは3年振りです」
召使いたちはほとんど解雇されたらしい。
この広い邸宅を放棄するための準備は着々と進められているようだった。
トルコ兵の略奪から守りぬかなければならない書類、芸術品、宝石、手形、為替類はすべて、父と兄によって運び出されたと、セラフィーノはアルヴィーゼに教えてくれた。
「船は使わない。陸路を行く。仕度は済んでいるか」
アルヴィーゼは なるべくセラフィーノを見ないようにして、彼に告げた。
じっと見詰めていると、この真珠に魂を吸い取られてしまうのではないかという危惧を、アルヴィーゼは抱いていたのである。

「陸路 !? 海路をとれば、ほんの20日ほどでヴェネツィアに着くのに !? 」
海洋商業国家ヴェネツィアの名家中の名家オルセオロ家の子息らしい不満といえば、それは確かにそうだった。
「運ぶ荷の多い父君、兄君は、海路を採らざるを得ないだろう。我々は それぞれがそれぞれの囮なんだ。敵の目を分散させるには、我々が陸路を行くのが最上策だ」
「でも……!」
アルヴィーゼの説明を受けたセラフィーノが、それでも やはり食いさがってくる。
意地を張って眉を歪めた表情ですら、アルヴィーゼには天上の天使の慈愛の眼差しより輝いてみえた。

「でも、なんだ」
自分はオルセオロ家に仕える家令ではなく、ビザンティン帝国の軍人なのだと自身に言いきかせつつ、アルヴィーゼはわざと尊大に、小さな少年を下目使いに睨みつけた。
「あ……」
アルヴィーゼの その氷の色の瞳にひるんだように、セラフィーノが、しばし口ごもる。
が、すぐにアルヴィーゼの言うことに理があることを認めたらしく、彼は微かに目を伏せた。
「すみません。僕、海賊は恐くないのですが、山賊は恐いんです。会ったことがないものですから……」

アルヴィーゼはセラフィーノの その言葉を聞いて、身にまとっていた緊張を僅かに緩め、薄く微笑った。
「上等だ。さすがはオルセオロ補佐官の子息だけある。今度の旅で 山賊も大したことがないとわかれば、この世に恐いものなどなくなるな」
初めて見るアルヴィーゼの微笑に気が緩んだのか、セラフィーノは、春の曙のような輝きを、その瞳に宿した。
そして、首を横に振る。

「僕は、でも、そんなに思いあがったりはしません。ちゃんと他に恐いものはありますから」
「ほう、何だ? 神か?」
「いえ、もちろん人間です。僕は、神には愛されているのだそうです。父はそう言っていました」
「……」
まるで人間には愛されていないかのようなことを言うセラフィーノの言葉に、アルヴィーゼは眉をひそめた。
誰もが魅入られ、その愛を得るためになら、どれほど冷めた心の持ち主も すべてを投げ出すだろう美しさを神に与えられていながら、今、セラフィーノの瞳には陰が射している。
深く見詰めることを自身に禁じていたことも忘れ、アルヴィーゼはセラフィーノの瞳をじっと見詰めた。
セラフィーノが、やがて再び、その瞳に明るさを取り戻す。

「でも、きっとあなたは違う。あなたは、僕とこうして平気で話をしてくださってますもの。僕を見ても、僕を憎んだり、僕を傷付けたり、この世から消え去るべきだと 気が違ったように訴えたりもしませんもの。父や兄の他に、こんなふうに僕に接してくださったのは、あなたと皇帝陛下だけです。僕、とても嬉しいのです。陸路だろうと海路だろうと、僕、なるべくあなたの負担にならないようにしますね」
「……そうしてくれると助かるな」

まだほんの14、5歳の少年が、これまでどんな悲しみに出会ってきたのか、アルヴィーゼには察する術もない。
決して平穏な気持ちでセラフィーノとの会話を続けていたわけではなかったアルヴィーゼは、低く、そう咳くことしかできなかった。






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