明けて翌週。 瞬は覚悟を決めたのである。 ここで情に流されてしまっては、氷河にも自分にも良い結果をもたらさない。 はっきり言ってしまうことは、とても酷なことかもしれないが、つらいのは氷河も自分も ほんのしばらくの間だけだろう――と。 運命の日の朝。 半世紀も前のメロドラマのようなことを考えている自分に目眩いを感じつつ、瞬はひとり、家の玄関を出た。 氷河がいつも姿を潜ませている 学校に行く方向とは反対側にあるT字路の角につかつかと歩み寄ると、瞬は、恋人の逆噴射に驚いている氷河に真正面から向かい合ったのである。 「瞬……?」 真近で見る瞬の少女のような面差しに、氷河は、これは良い前兆なのか悪い前兆なのかと戸惑っているようだった。 そして、恋する人間の常として、氷河の心は徐々に期待の方に傾きかけていったらしい。 氷河のそんな様子には胸が痛んだが、瞬は心を鬼にして、固い口調で彼に告げたのである。 「氷河……。勝手なことばかり言って悪いと思うけど、“黙って見守る”の、もうやめてくれない? 迷惑なんだ。僕、困るんだよ」 「瞬……!」 氷河は、半ば叫ぶように彼の恋人の名を呼んだ。 氷河が来る日も来る日も瞬の姿を追い、黙って見守り続けていたのは、そんな言葉を聞くためではなかった。 異国で出会った運命の恋人に、ただ一言、『約束を守ってくれて、ありがとう』と微笑んでもらいたいがため――ただそのためだけに、氷河は愛する人を“黙って見守り”続けていたのである。 だというのに――。 「瞬……は、そんなに俺のことが嫌いなのか? 俺を苦しめるのが、そんなに楽しいのか? 瞬を抱きしめることはおろか、口をきくことすらできなくて、だが、それでも瞬の姿を見ていられるのならと、これまで耐えてきたのに……!」 それがどれほど非常識な男の言葉であれ、真剣一途な心の叫びには、人の胸を打つものがある。 「氷河……」 氷河の悲痛な訴えは、元来死ぬほど人がよくできている瞬に、絶大な効力をもって揺さぶりをかけることになった。 瞬の瞳には、自分がいじめた相手のために、じわりと涙がにじんできてしまったのである。 慌ててその涙を拭い、瞬は腹をくくったのだった。 こんなふうに彼を傷付けるくらいなら、彼の突飛な振舞いのために自分が被る多少の迷惑など、どれほどのものだろう。 耐えられないことなどあるはずがない。 あるはずがなかった。 瞬は、自らの胸の内に引っかかっている ためらいを無理に振り払い、恋人の拒絶に打ちのめされているフランス男の手を、恐る恐る両手で握りしめた。 つらそうに、瞬から背けていた視線を、氷河が瞬のその白い手の上に落とす。 「そ……そうじゃなくて……あの……え……と、そういう意味じゃなくて、あの、僕が氷河を嫌いなんじゃなくってね!」 この先 生きていく気力もないと訴えているような氷河の土気色の頬にうろたえながら、瞬は更に強く氷河の手を握りしめた。 「い……以前のように、モナミでもモンシェリでも好きなこと言っていいから、こんなとこで僕を見てるのはやめて――ってことなんだよ。こんな朝早くから夜遅くまでそんなことしてたら、氷河だって身体を壊しちゃうし、それに、授業にもちゃんと出なくちゃ、氷河、何のために留学してきたのかわからないでしょう……!」 「瞬……」 絶望の色に打ち沈んでいた氷河の瞳は、瞬のその言葉にぱっと生気を取り戻した。 「瞬が、そんなにも俺のことを思っていてくれたとは……!」 フランス男は、恋に落ちるのも早かったが、立ち直りはそれに輪をかけて早かった。 かててくわえて、手も早かった。 氷河は、やけにあっさり立ち直ったかと思うと、その2秒後にはもう、その胸に瞬の身体をしっかりと抱きしめてしまっていたのである。 「もちろん、瞬の言う通りにする。ああ、俺は生きていてよかった……!」 再びその手の中に戻ってきた大切な恋人の優しい言葉に感動した氷河は、場所も時間もわきまえず、通勤通学者の行きかう朝の往来で、幾度も幾度も瞬に口付けを繰り返した。 「瞬……俺の大事な可愛い瞬……! 俺は永遠に瞬だけのものだ……!」 ほとんど理解の域を超えまくっている氷河の日本語を、まるで終わる気配を見せない濃厚なキスのせいで薄らぎ始めた意識の中で聞きながら、瞬は、やはり おフランス男などに甘い顔を見せるのではなかったという、苦い後悔に襲われたのだった。 ――フランス男の情熱と瞬の苦悩に果ては無い。 どうして愛に国境はないのだろうと、瞬は、心の底から神様を恨んでしまったのである。 Fin.
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