「兄さん、兄さん。ありがとうございます! 兄さんの言う通りにして、母の日、無事に乗り切れました!」 翌日、瞬は、朝食もそこそこに、自分に得難い助言を授けてくれた兄の部屋に赴いた。もちろん、氷河の目を盗んで、である。 一輝はちょうど着替えを済ませたところだったらしい。 朝が苦手な氷河とは比べ物にならないくらい覚醒しきった表情で、彼は、嬉しそうな弟の報告を受けた。 一輝自身は、その報告を聞かされても、あまり嬉しそうではなかったが。 「僕が兄さんのこと話しだしたら、氷河ってば、マーマの思い出に浸って沈み込むどころじゃなくなったみたい……。兄さんの言った通りでした」 「ふん。あの馬鹿が、いくら度外れた馬鹿でも、生きている者と死んだ者を混同するほどの馬鹿でもあるまい」 『馬鹿』を連発する兄に、瞬が困ったように肩をすくめる。 「もう……。兄さんまで、そんな言い方…。兄さんと氷河が反目し合うのをやめてくれたら、僕、すごく嬉しいのに」 太陽が西から昇っても叶うはずのない望みを口にする弟に、一輝が、その望みの無益さを説く。 「そんなことになったら、あのマザコンに来年の母の日を乗り切らせる新しい方法を考えなければならなくなるだろうが」 昨日、年に一度の5月第2日曜日を迎えて、氷河が亡くなった母への想いに打ち沈むことになったらどうしようかと悩んでいる瞬に、一輝が授けた回避法は、 『奴の前で俺の話をしてみせればいい』 だった。 兄の助言に従って、確かに昨夜、瞬は氷河の中から死んだ人の面影を遠ざけることに成功したのである。 「……そうですね。でも、どうして氷河はわからないのかな…。僕が氷河の名前を呼んでるからって、氷河のこと考えてるとは限らないし、兄さんのこと話してるからって、氷河のこと考えてないとは限らないのに……」 実際、夕べ、瞬は、氷河のことを思って、兄の話を持ち出したのである。 瞬の切なげな呟きに、一輝がきっぱり断言する。 「それは奴が馬鹿だからだ」 身もふたもない兄の断言に、瞬は咄嗟に氷河を弁護する言葉を見付けることもできなかった。 「あの馬鹿は、言葉は言葉でしかないこともわかっていない、極めつけの馬鹿だ」 言外にあるのは、 『なぜ、おまえが、そんな馬鹿に惚れるんだ?』 ――である。 瞬は、弁護にもならない弁護を口にすることしかできなかった。 「でも、そこが可愛いから」 「ふん。可愛い子には旅をさせろと言うぞ。ああいう甘ったれには、一度ガツンと鉄拳を食らわせてやった方がいいんだ」 世間一般には、氷河などより56億7千倍も『可愛い』と評されているアンドロメダ星座の聖闘士の眼差しは、犠牲の美姫というよりは、むしろ、聖母のそれに近かった。 「もう少ししたら、もちろん、そうしますよ。旅に出してお利巧になって帰ってきてくれるって見極めがついたら。でも、今はまだ、甘やかしといてあげたいんです」 「……」 時折、一輝は、この瞬に愛された氷河に同情を覚えることがあった。 氷河は、瞬を自分のものにしたつもりでいるのだろうが、事実は全く逆である。 瞬は、氷河の、同じ時代に生きる仲間であり、友人であり、生死を共にする戦友であり、可愛らしい恋人であり、つい手を差し延べてやりたくなる頼りなげな弟であり、優しい母親であり、厳しい父親でさえある。 氷河は、そのうちに(もしかしたら、もう既に?)瞬さえいれば、他の存在など必要としなくなるほどに、瞬の愛情に支配されてしまうだろう。 それはこの上なく幸福なことではあろうが、万一、氷河が瞬を失うようなことになったら、氷河の破滅は目に見えている。 そして、瞬自身もまだ気付いてはいないのだ。 自分の愛情の全能の力に。 「おまえは、もっとずっと幼い頃に、無理矢理“旅”に出された」 だから――なのだろうか。 瞬のこの不思議な力は。 「そして、強くなって帰ってきた? でも、それは、兄さんがいてくれたからですよ。どんなことにも耐えて、生き抜けば、兄さんのいるところに帰っていけるってわかっていたから……」 「僕はまだ、自信がないんです。僕が僕にとっての兄さんほど、氷河にとっても確かな存在になれているのか」 見ようによっては、やわらかい春の風に吹かれてさえ散ってしまう薄桃色の桜の花。 しかし、瞬が、どんな強い嵐にも決して負けることのない秋桜だということを、一輝は誰よりもよく知っていた。 (嘘をつけ。旅に出たおまえは、確かに強くなりはしたが、俺の許には帰ってこなかった……) 氷河なら、たとえどんなに厳しく突き放されて“旅”に出されることになっても、必ず瞬の許に帰ってくるだろう。 しかし、瞬は――強くなってしまった瞬は、自分自身を唯一の帰港地として、兄の許には帰ってこなかった。 代わりに、兄と対等な存在として、今、一輝の前にいる。 否、そうなった今でも、瞬は、兄を慕う可愛い弟であり、闘いの場では生死を共にする仲間であり、亡き母の面影を偲ばせる優しい存在であり、馬鹿な男に奪われたことを一輝に悔やませる大切な恋人でもある。 (結局は、俺も、氷河と大差ない、か……) それほどの存在に出会えたということは、確かに幸運なことなのだろう。 己れの神の姿を見いだすこともできないまま生を終える人間の多いこの世界を思えば。 愛にすら無欲に見える弟の、世界を抱擁するように優しい眼差しに、一輝は己れの不幸を自覚した。 Fin.
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