聖域に一歩足を踏み入れた氷河を出迎えたものは、鋭い一本の矢、だった。
どこぞの女神などとは違いあっさりそれを掴み取り、矢の放たれた方を見ると、そこに一人の見知らぬ男が立っている。

「久し振りだな、キグナス」

全く見覚えのない男に『久し振りだな』などという挨拶を、しかも、妙に偉そうな態度で投げつけられて、氷河は思いきり気分を悪くした。

「誰だ、貴様は」
「なに?」

まさかそんな答えが返ってくるとは思ってもいなかったらしいその男が、存外可愛らしく首をかしげてみせる。

「憶えていないのか? この俺を?」
「どこかで会ったことがあったか」
「…………」

氷河は、決して彼の偉そーな態度に腹を立ててわざとそんなことを言ったわけではなかった。その男の偉そーな態度は確かに不愉快ではあったのだが、彼は実際その男を知らなかった――もとい、憶えていなかったのである。筆者が憶えていなかったのだから、それも道理ではあるが。

半分めげつつも、何とか気を取り直して、その男は自分の名を名乗った。
「俺はサジッタのトレミー」
「誰だ、それは」
名を聞いても思い出せないものは思い出せない。

「12宮戦の時に、アテナに矢を射た白銀聖闘士だっ!」
「ああ、そういえば……そんな奴がいたよーな、いなかったよーな……」
「…………」

トレミーがここで日本海溝より深く落ち込んだとしても、それは仕方のないことである。彼は、自分が青銅聖闘士にも顔を忘れられてしまうほど印象の薄い男だとは思ってもいなかったのだ。

ショックのあまり、その場にしゃがみ込み、母なる大地に語りかけ出したトレミーに、氷河は、らしくもなく慰めの言葉をかけてやった。
氷河の親切はもちろん、同情心や哀れみからのものではなく、彼に立ち直ってもらわないことには話が先に進まないという、実に現実的な理由から起こったものだったが。

「まあ、気にするな。実を言うと、俺は黄金聖闘士12人の顔も全部は憶えておらん。貴様だけじゃない」

氷河のその慰めになっていない慰めが効を奏したのは、トレミーが馬鹿だったからである。彼は、自分がこの青銅聖闘士にとっては黄金聖闘士と同レベルなのだという、逃避的解釈をして自らの心を守ろうとしたのだ。
で、何とかメッセンジャーとしての自分の役割を思い出し、彼は氷河に告げた。

「アンドロメダは教皇の間にいる。返して欲しくば、これから貴様は、聖域12宮料理勝負に挑まねばならん。各宮を守る黄金聖闘士たちに料理を作って、『美味い』と言わせることができたら、次の宮に進むことができる。『不味い』と言われたら即座に失格。アンドロメダは永遠に教皇の間に囚われの身ということに――おい、貴様、人の話は最後まで聞かんかっ!」

人の話を最後まで聞かずに、すたすたと白羊宮に向かって歩き出した氷河を、トレミーが引き止めようとする。

だが、氷河は、そんな、かろうじて名前がある程度の脇役から、不愉快極まりない例え話を聞くつもりはなかったのである。瞬が自分の手から永遠に奪われてしまうなどという、馬鹿げた話を。

だいいち、そんな話は聞いても無意味である。
氷河は、瞬が賞品のこの勝負に負けるつもりなど、毛ほどにもなかったのだ。

何故かはわからないが、この12宮を通り抜けないことには瞬を取り戻せないというのなら、前進あるのみ、後ろを振り返っている余裕はない(ページ数ならぬ画面数の都合もある)。


氷河は、(良く言えば)実に前向きな男だった。一つの目的しか目に入らない男だった。
故に、彼は、自分が生まれてこの方、料理というものを一度もしたことがないという事実すら忘れていたのである。

今、彼の頭の中にあるものは、これから繰り広げられる闘いのことではなく、その闘いが自分の全く未経験なジャンルで為されるということでもなく、ただひたすら、誘拐犯の手から取り戻した瞬との感激の対面、そして、その瞬との愛と感動の××のことだけだった。



――とにもかくにも、そういうわけで。
聖域12宮料理決戦の火蓋は切って落とされたのである。







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