その夜、この館に来て初めて、瞬は自分から獣の許を訪れた。 血だらけだった身体を清めた後の獣の身体からは、それでもまだ血の匂いがする。 獣は、自分の部屋の絨毯の上に、絶望したような身体を臥していた。 彼の周囲に漂う血の気配を怖れる気持ちは、不思議に瞬の中には湧いてこなかった。獣を支配している絶望の方が、はるかに強く瞬の心を掴みあげ揺さぶった。 「氷河。あの人たちがまた氷河を殺しにやって来そうで、僕、怖いの。ここで一緒に眠ってもいい?」 獣が、瞬のその言葉に聳動したような眼差しを瞬に向けてくる。 瞬が、異形なだけならともかく、異類の身とわかった自分を怖れていないことが、獣を驚かせたようだった。 「さっきの俺を見ただろう。俺は、夜中におまえを噛み殺すかもしれんぞ」 「それでもいい。氷河があの人たちに殺されることに怯えて眠るよりずっと」 「…………」 人間なら――特に瞬のように温和な質の人間なら恐れおののくはずの血にまみれた獣の姿。 そんな様を見られたからには、今日にでも瞬はこの館を出ていくに違いないと、獣は絶望していたのである。 獣は、瞬が異類の者の心を傷付けないために、無理に自分自身を曲げているのではないかと疑い、そのことを哀しんだ。 喜ぶことなど、できるはずもない。 瞬は、そんな獣の思いを気付いているのかいないのか、獣の返事を待たずに、獣の側に歩み寄り、そっと獣の背にもたれかかった。 そして、黙って目を閉じた。 人間には持ち得ない、柔らかくなめらかな毛並み。 人間とは質の違う体温。 その夜は、切ない夜だった。 二人は、互いに寄り添い合いながら、一睡もしなかった。 再度あるかもしれない人間たちの襲撃への恐怖からではなく。 瞬は、自分がそんなにも求めている白い花のことを思い、獣は、与えることが許されるのなら、求められるまま瞬に与えてしまいたい白い花のことを思って――二人は眠れなかったのである。 翌日も、二人はただ一つの言葉も交わさずに、だが、互いに離れることもできずに、時を過ごした。 そして再び夜が巡って来る頃には、瞬にはすべてわかっていたのである。 自分の求めている白い花が何だったのか。 自分の望んでいたことが何だったのか。 自分が、欲しがってはいけないものを求めたわけではないこと。 そして、それを手に入れるために、自分はどうしたらよいのか。 瞬は獣に言った。 「氷河、僕はあなたと同じものになりたい。そうすれば、僕は、いつまでもあなたと一緒にいられるんでしょう? 僕が人間でいることで、あなたの心を傷付けることもなくなって、そして、僕はあなたから白い花をもらうことができるんだ」 瞬の望み――否、それは、既に決意だった――を聞いた獣の瞳は、ひどく哀しい色を浮かべた。 自分の館に咲く白い花が、瞬にすべてを捨てさせようとしているのだと、彼は思ったのだ。 「おまえはきっと後悔するだろう。おまえに出会った時の俺のように」 「そんな日は来ないよ。僕はもう氷河に出会った後なんだから」 「おまえには、おまえが獣になったことを悲しむ者がいる」 「兄さんは、僕が獣になっても、変わらず僕を愛してくれるよ」 「…………」 まるで神に祈りを捧げるように氷河の前に跪いた瞬を、獣は――氷河は――しばらく無言で見詰めていた。 わかっていることは、互いが互いに一人では生きていけないことだけだった。 そして、白い花が、この館の庭に一輪しかないということだけ。 醜悪で孤独な人間でいることから逃げ出した自分とは、全く異なる瞬の勇気。 瞬の決意に触れた氷河は、もう瞬なしでは、人としても獣としても生きていけない自分を自覚していた。 そして、氷河は初めて、逃げるためではなく、自分が生きていくために、白い花を自分以外の存在に託すことを決意したのである。 氷河は、まるで愛撫するように、瞬に我が身を摺り寄せた。 今は苦い血の味の消え失せた甘い舌で瞬の身体に触れると、瞬の人間の皮は剥がれ落ち、やがてそこに亜麻色の毛並みの一匹の美しい獣が現れた。 そうして瞬は、ついに白い花を手に入れたのである。 二匹の獣の住む館の庭で、今もその花は美しく咲き続けている。 Fin.
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