庭先のデッキチェアーに腰をおろしたまま、リビングルームに背を向けている氷河の肩を、瞬は気遣わしげに見詰めていた。


『別に気にするほどのことじゃないよ』と、言えるものなら、瞬は氷河に言ってやりたかった。『氷河にそんなに思ってもらえてるのなら、僕は嬉しい』――と。
しかし、瞬にはそう言うことはできなかった。たとえそれが本心だったとしても、やはりそれは言ってしまっていい言葉ではないと、瞬にはわかっていたから。

だが、では彼に他に何と言ってやればいいのか――が、瞬にはわからなかったのだが。




深い霧の中で行き悩んでいるような瞬に、進むべき道を示す道標のありかを教えてくれたのは、そして、今もアルビオレだった。

「彼は、ある意味幸福な少年時代を過ごしたのかもしれないが、それは不幸なことでもある。いつも愛する対象を一人しか持てないというのは、その人を失った時の痛手が大きいし――下手をすると、それがそのまま彼の破滅を意味することにもなりかねない。おまえは、彼を変えてやらねばならないぞ、瞬。多分、それはとても難しいことだ」

「はい。先生」

深い憂苦に沈んでいたはずの瞬は、しかし、師のその言葉にすぐに頷いた。頷くことができた。
以前、アンドロメダ島で、師の言葉に触れるたびにそうしていたように。

アルビオレはいつも、決して道標に書かれていることを瞬たちに読みあげてはくれなかった。彼はただ、道標のありかを瞬たちに教えてくれるだけだった。あるいは、道標を探し当てるための勇気を揺り起こしてくれるだけ。

そこに何が書かれているのかは、自分自身の目で確かめなければならないのだと、おまえにならそれができるはずだと、それができるのはおまえ自身だけなのだと――“子供たち”に向けられるアルビオレの眼差しはいつも無言で語っていた。


「難しいことかもしれないけど、でも、僕、できると思うんです。先生が僕たちにそうしてくださったように」

兄しか頼れる者はないと思っていた瞬を、自分をライバルと見なす仲間たちにすら思いやりを持てる人間に変えてくれたのはアルビオレだった。
孤独や無力感にうちのめされ、絶望のうちに死を望むようになっても少しも不思議ではなかったアンドロメダ島の子供たちに、彼はそれでも決して生きることを諦めさせなかった。
子供たちそれぞれの、優しさを、強さを、時には無思慮とも思える我儘や無意味とも思える闘争心を煽るようなことまでして、それでも、アルビオレは、あの地獄のような島で、決して子供たちから生気を失わせなかったのだ。

聖闘士の育成者としては、聖闘士としては、もしかしたら、彼は力量が不足していたのだったかもしれない。
しかし、瞬にとって、アルビオレは、人間の育成者として最高の師だった。


兄の境遇を聞かされて、瞬はその思いをなお一層強くした。
アルビオレの許で、瞬は自分でも驚くほどに変わることがなかった。成長はしたが、強くなりはしたが、心を曲げることも希望を失うこともなかった。
幼い子供が、アンドロメダ島のような環境で、そういう成長を遂げられたのは、強い愛情で慈しみ守ってくれる人がいたからこそである。

戦闘の実践訓練になると無口になってしまう師が、瞬はとても好きだった。


自分は、氷河に、師と同じことをしてやればいいだけなのである。自分の進むべき道を見付け出す力を氷河は持っているのだと信じて、彼を力付けてやればいいだけのことなのだ――瞬は、師の前で、驚くほど容易にそう思ってしまうことができた。

「育児のようなものだな。精神的に成熟し、他者に対して情愛をもって接することのできる者だけが、子供の我儘や弱さを苦痛と感じることなく、子供の成長に喜びと幸福を感じることができる。おまえは、とんでもなく手強くて大きな子供を持ってしまったようだが」
「はい」

投げかけられた言葉に素直に頷くことのできる師を持つということは本当に幸せなことだと瞬は思い、それから彼はくすりと忍び笑いを洩らした。

「僕、ほんとにきゃわちゃんとケッコンしてもいいな。先生をお父さんと呼べるのなら」
「彼が黙っていないだろう」
「ええ、そうなんですけど」

微笑って師に頷き返してしまってから、瞬は一瞬遅れて表情を強張らせた。

「あっ……あの……」

瞬は、アルビオレに、氷河を特に親しい“仲間”だとしか紹介していなかったのである。
『以前、命を救ってあげたことがあって、妙に懐かれてしまったんです』とか何とか適当なことを言って、氷河は少し変わっているのだと言外に匂わせながら。


「私が望むのは、おまえの幸福だけだ、瞬」

道徳のテキストに常識のブックカバーをかけたような師に、瞬は恐くて言うことができなかったのである。
『氷河は僕の同性の恋人です』だなどと、おそらく師にとっては“非常識極まりない”だろうことを。

常識の権化のアルビオレは、しかし、常識以上に大切なものを持っている人間だということを、瞬は知ってはいたのだけれども。

「……はい」

感謝の気持ちを込めて、瞬は師に頷いた。

「ははは。それに違和感がなくてな。あまりに自然な一対で。離れている方が不自然な気がするほどだ」

「…………」

多分それでもやはり、自分と氷河の関係は師にとっては“非常識なこと”なのだろうと、瞬は思った。
アルビオレの言葉は、彼の優しさと寛容、包容力から出ているのだ。
それがなければ、人は人を成長させられない。
厳しさだけでも、優しさだけでも、技術や経験、理屈だけでも、そして、愛情だけでも、人は人を正しい方向に導くことはできないのだ。

その全てを――その全てを兼ね備えた人を“師”と仰げる幸運に巡り合える人間が、この世界にどれほど存在するものなのだろう。

(僕の先生だけじゃなく、氷河の先生も、星矢の先生も、紫龍の先生もそうだったのに……。兄さんだけが……兄さんだけが、そんな先生に恵まれなかったんだね……)

環境だけならデスクイーン島と大して変わらないアンドロメダ島が、『地獄』と呼ばれていなかった訳。
デスクイーン島とて、そこで一輝を迎えてくれた師が敬愛をもって接することのできる人間であったならば、そこは地獄の島ではなかったはずなのだ。

氷河が他者を受け入れることを苦手としている理由が思春期の環境にあったように、兄が一人でいることを好むようになったのもまた、同じことが原因なのかもしれない。

一時のこととはいえ、兄と自分とを隔てていたものが物理的な距離ではなかったことが、瞬の胸を切なく締めつけた。





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