その夜、旅の仕度を整えてベッドにごろりと横になった氷河に、瞬は硬い表情で尋ねた。 「氷河、どうしても行くの、シベリア」 「何か不都合でもあるのか?」 「……」 瞬にしてみれば、自分たちが一緒にいられないという、そのこと自体が不都合の極みだった。 氷河がそう思っていないらしいことが、瞬の神経を逆撫でする。 黙り込んでしまった瞬をちらりと横目で盗み見て、氷河は、一つ嘆息を洩らした。 そして、言った。 「瞬。自分が傷付きたくないから、他人を傷付けようとするやり方は、自分を守るための実に有効な方法だが、おまえの場合、おまえ自身がより一層傷付くだけだからやめた方がいい」 「何のこと」 「マザコンなんて言われても、俺は傷付かないが、言ったおまえは傷付く。そーゆー自虐的なことをやめろと言っているんだ」 「…………」 そんなことは――そんなふうな他人の気持ちは読み取れるくせに、なぜ自分がシベリアに行くことの不都合が氷河にはわからないのかと、瞬はますます氷河への苛立ちを激しくしたのである。 「そーだね、氷河はマザコンじゃないから傷付かないよね。ほんとは何しに行くの、シベリアくんだりまで!」 瞬にはそれがわからなかったのである。いっそ氷河が本当にマザーコンプレックスなり何なりで、シベリアに所縁のある亡くなった人たちを偲ぶために、あの白い大地を訪れるのだと思えたなら、瞬はどれほど優しい気持ちになれただろう。 亡くなった母を、師を、友を偲ぶために、氷河がそこに向かうのなら。 だが、そうではない。 もしそうだったとしても、氷河をそういう気持ちにさせた直接の原因が自分にあることだけは、瞬にもわかっていた。氷河の頻繁なシベリア行きは、氷河が瞬を初めて抱いた、その翌日から始まったのだから。 「別に。郷愁に浸るため…かな」 「氷河の故郷は日本でしょ」 「そうだ」 「なら何故」 「……まあ、そーゆーことはどうでもいいじゃないか。ちゃんと土産は買ってくるから」 可愛い顔を無理にきつくして枕元に立つ恋人を抱きしめようと腕を伸ばしてきた氷河から、瞬はするりと身をかわした。 その仕草に片方の眉をひそめた氷河に、瞬が素直に謝ってくる。 「ごめん、我儘言って……。ごめんなさい」 「いや」 謝罪してくる瞬の瞳が何かを企てている者のそれだということに、その時の氷河は気付いていなかった。 「ねぇ、氷河、ちょっと両手を頭の後ろにまわしてくれる?」 「ん? こうか?」 「うん。ありがと」 その途端、だった。 瞬の小宇宙が一瞬火花のようにぱっと燃えたかと思うと、突然ネビュラチェーンが飛んできて、氷河の胸にぐるぐると絡みつき、彼をベッドに縛りつけてしまったのは。 「な……瞬、何の冗談だ?」 「別に何の冗談でもないよ。僕、氷河をここに監禁する」 「なに !? 」 「もう、ずっとこのままでいて。シベリアになんか行かないで」 「な…何言ってる! ほどけ!」 「いや!」 氷河の要求を、瞬は言下に拒否した。 瞬には瞬なりに、こうせずにいられない理由というものがあったのである。 「氷河、僕とこうなる前は、シベリアのことなんて忘れてるみたいだったのに! なのに、僕とこーゆーことになった途端、急に僕を避けるみたいに頻繁にシベリアに行くようになって、最初に僕のこと好きだって言ってくれたのは氷河なのに、氷河、僕にとこんなふうになっちゃったこと、後悔してるんでしょ!」 それが、氷河の頻繁なシベリア行きから推察して導き出した瞬の“答え”だった。 それまで、シベリアのシの字も口にすることがなかった氷河。 自分と割りない仲になってから、突然頻繁になった彼の帰郷。 月に1度、もしくはそれ以上の頻度でシベリアに出掛けていく氷河は、短い時には2、3日で、長い時には1週間以上、日本へは帰ってこない。 そこから察して、瞬は、氷河が自分を避けるために日本を離れるのだと思わざるを得なかったのだ。 「…………」 思わざるを得なかったが、違う理由があってほしいと、瞬は期待してもいた。 しかし、待てど暮らせど、瞬の推察を否定する言葉を氷河は口にしてくれなかった。 待てるだけ待って、それ以上待つことが無駄だと悟ると、瞬はきつく唇を噛んだ。 主人の気持ちに、瞬のチェーンは実に忠実である。 ネビュラチェーンは、一層強く氷河の身体を縛りあげた。 幸いなことに自由になる腕で、氷河はチェーンを外そうと試みはしたのだが、そんな試みが無駄だということは、氷河にも最初からわかっていた。 「もうずっとこのままでいろと言われても、いくら俺だってメシを食わんことには死んでしまうぞ」 「僕が食べさせてあげる」 「風呂にも入れないじゃないか」 「僕が毎日身体を拭いてあげる」 「……おまえ、介護福祉士の資格でも取るつもりか」 氷河の冗談めいたぼやきにも、瞬はにこりともしない。 「眠れて、食事ができたら、繋がれてても死ぬことはないでしょ」 本当に、これは“人を傷付けるのが嫌いな”平生の瞬ではない。 何がこうまで瞬を変えてしまったのかと、氷河はこの事態に困惑してしまったのである。 「しかし……」 「なに」 「だから、その……つまり、トイレはどーするんだ」 「ああ、そんなこと」 瞬は、人間の重要極まりないその生理現象をさしたる重要事とは考えていないようだった。 こともなげに、瞬は言ってのけた。 「氷河は美形だからトイレ行かないでしょ。僕、氷河がトイレ行くの見たことない」 「…………」 言われてみれば、確かに行った記憶はない。 なかったのだが。 これは、『だから監禁の支障にならない』と片付けてしまっていい問題なのだろーか。 「しかし、これじゃ『胸でぐるぐる』じゃなく、『胸をぐるぐる』だろーが! お題は『胸“で”ぐるぐる』のはずだぞ」 「お題? 何のこと?」 「…………」 氷河はまた沈黙するしかなかった。この無謀ともいえるシチュエーションに、瞬はどうやら、思いきりシリアスモードで挑むつもりでいるらしい。 瞬の真剣そのものの眼差しに、氷河は微かな目眩いを覚えてしまったのである。 そんな氷河に、瞬が、講義を終えた教師か何かのように冷ややかな口調で尋ねてくる。 「他に不都合は?」 「あるぞ!」 氷河は、力一杯声を張り上げた。 ここで『では、今日の講義はここまでにします』と、瞬に立ち去られてしまってはたまらないのだ。 「何?」 「できない」 「え?」 「おまえと、できないだろーが!」 「そんなことないよ。僕がしたげるから」 「へ?」 「こんなふうにすればいいんでしょ!」 言うなり、氷河の縛りつけられているベッドにあがりこむと、瞬は向きになったような仕草で、氷河の身に着けているものを剥ぎ取りだしたのである。 チェーンで縛りつけられているせいでマトモに脱がすことのできないYシャツなど、ほとんど引き裂くようにして、氷河から取り除いていく。 「お……おい、瞬…;;」 乱暴と言っても語弊のないような瞬のやり方に物言いをつけようとした氷河の唇をふさぎ、それから瞬は、悔しそうに潤んだ瞳で氷河を睨みつけてきた。 見たこともない瞬のその表情に“感じて”しまう自分自身に、氷河は我が事ながら呆れてしまったのである。 が、そうなるとコトは容易かつスムーズに進む。 瞬がそうしてくれたというよりは、氷河は自発的に準備を整えてしまったのだ。 ともあれ、そういうわけで、無事に××完遂――である。 |