「小切手じゃ、飲み代は払えん」

ぶつぶつ口の中で文句を言いながら、シャカは、肩を滑る長い金髪をうざったそうに払いのけた。
これほど邪魔なものを、何故切る気にならないのか、彼は自分でも合点がいかなかった。

少しでも一輝の懐に打撃を与えたくて飲み続けていたコニャックも、自腹を切るとなると追加をオーダーする気にもならない。
他に誰もいなくなったバーのカウンターに、シャカは片肘をついた。

「……そうまでして手離したくないものか」

弟のボディガードの力が信頼できるものなのかどうかを試すためと言いながら、一輝がその無能の確信を得て、彼を弟の側から引き離したいと思っていたのは火を見るより明らかである。

ビジネスとして引き受けはしたが、それ以上に、彼は、一輝の唯一の弱みに興味があったのだ。

「まあ、弱みのない人間ほど哀しいものもないだろうが」

一輝の“弱み”は、想像していた以上に可憐で清冽な“弱み”で、今回の仕事はシャカには実に楽しいものになった。
あんな弱みなら、2つ3つ抱えているのも悪くはないとも思う。


その点で一輝は誰よりも幸福な男なのだと言えないこともない。
問題は、その大切な“弱み”が、他の男の手の内にあるということなのだろう。


そうしようと思えば、自分の手を汚さずに邪魔者を片付けることも、謀計を巡らせて二人を引き離すことも、一輝には容易いことのはずなのである。
だが、彼にはそうすることはできない。
奪われたものを無理に奪い返して、その涙を見ることになるのを怖れるほどに、深い情。

それほど愛せるものが自分の側にいるという事実を当然のことと受け止めて、自分の幸福に気付いてさえいないらしい男の不機嫌そうな顔を、シャカは残り少ないグラスの酒の上に思い浮かべた。

「まったく幸せな男だな」


幸せな人間は、自分の幸せになど気付かない。
幸せなどよりずっと、人は、憎悪や嫉妬に心を奪われるようにできているのだ。

(いや、一輝もそれはわかっているのかもしれんな……)

それでも人は“より以上”を望む。
それを人は“生きる”と言うのである。

(してみると、悟りを開いた人間というものは死んでいるも同然か)

死んでいるよりは、生きている方が、生きるには楽しい。
やはり、一輝は幸せな男なのだろう。


幸せな人間の、哀しいほどの不幸に嘆息し、シャカは、グラスに残っていた琥珀色の液体を一口で飲み乾した。






Fin.






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