その日、沙織は、アテナ神殿に双子座の黄金聖闘士サガを呼び出し、とある憂慮すべき事態について話し合っていた。
憂慮すべきその事態とは、すなわち、『今現在、アテナの聖闘士たちには闘うべき敵がいない』ということ。
敵がいない時の聖闘士たちの身の振り方に、沙織は苦慮していたのである。

「敵がいないということは、地上の平和が保たれているということよ。大変結構なことです。でもね――」
敵がいないということは、聖闘士たちに仕事が与えられていないということである。
聖闘士たちが働いていないということ。
ぶっちゃけていえば、暇を持て余しているということなのだ。

外敵のいない国で、強大な軍隊を養うことに何の意味があるだろう。『来たるべき時に備えて』と言われたところで、その来たるべき時が本当にやって来るのかどうかさえ定かでないとなれば、その国の国民が、軍隊を養うために費やされる多額の税金に不満を抱くのは当然のことである。

この場合の国は、すなわち、グラード財団。
金食い虫の軍隊はアテナの聖闘士たち。
そして、不満を訴えている国民は、財団支配下にある多くの企業の従業員たち、だった。

「星矢たちはね、まだ未成年だから仕方がないと思ってもらえているようなの。星矢たちが、幼い頃に世界各国に送り込まれて、散々苦労して聖闘士になって帰ってきたのだということは、財団内の誰もが知っていることだし、同情されこそすれ、責める人なんていないわ。これからしかるべき教育を受けさせて、グラード財団内で役に立つポストを与えれば、それなりに財団に益をもたらす人材だろうって、みんな思っているのよ。でもね、あなた方、黄金聖闘士たちは……」

財団のある幹部の言葉を借りるならば、
『いー歳をした大人がきんきらきんのコスプレをして、聖域の大理石の宮殿で有閑マダムのような優雅な暮らしをしているのはけしからん!』――のだそうだった。

「なにしろ、最初は十二宮戦で星矢たちをいじめて、その後のアスガルド編ではほとんど出番なし、ポセイドン編でもちょっと聖衣を貸した程度で、ハーデス編は未放映……となったら、財団幹部たちの言うことにも反論しにくくて……」

沙織の声は苦渋の色に満ちている。
財団内の従業員と黄金聖闘士たち――そのどちらが財団により多くの利益をもたらしているのかと問われれば、今現在は確かに従業員たちの方なのだ。

彼等の言いたいことはただ一つ。
『働かざる者、食うべからず』
この一事に尽きるのである。



「しかし、我々は――」

それまで、黙って沙織の言葉を聞いているだけだったサガが、黄金聖闘士たちの立場の弁明にとりかかろうとした、まさにその時。
アテナ神殿の謁見の間、アテナが腰をおろしている玉座と、その下座で跪いているサガの間を素早く走り抜けていく、怪しげな一つの影があった。

「きゃあ〜っっ !!!! 」

沙織に女神らしからぬ悲鳴をあげさせたその不届者を、アテナの守護を至上義務とするサガは即座に跡形も無く光速の拳で粉砕した。
黄金聖闘士であるサガは、その栄光に包まれた神聖な義務を見事に果たしてのけたのである。

そうして、彼は、何事もなかったかのように涼しげな表情と口調で、アテナに告げた。
「最近、多くなりました。人間の食生活が豊かになれば、この手の輩も増えてまいります。敵は粉砕いたしましたので、アテナには、どうぞお心安らかに……」

「い……今のは……今の黒い物体はもしかして……」
あの黒い物体に出会って、『お心安らかに』もくそもない(失礼;; つい著者の心の叫びが)。
が、サガの方はあの黒い物体を見慣れているのか、あるいは光速の拳を見切る黄金聖闘士の目には、あの黒い物体の不気味この上ない超高速の動きもカブトムシと大して変わらないものに映るのか、動じた様子もない。

「はい、最近、聖域を我物顔で闊歩している、ゴキブ……」

「きゃああああああああああっっっっ !!!!  口にしないでっ! その単語を口にしないでっ!」

アテナの金切り声を、誰に『女神の威厳なし』と評することができるだろう。
相手は、あの! あの! あの黒い物体なのである!

「は、しかし、ではどのように申し上げれば……」

「リ…リリィちゃんよ! リリィちゃんと言いなさい! これはアテナの命令です! これから、アテナの聖闘士たちは全員、あの黒くて素早くてしぶとい昆虫のことをリリィちゃんと呼ぶのです! わかりましたね! あのおぞましい名前を私の前で口にすることは、決して決して許しません!」

女神の地位を危うくするヒルダの美貌と威厳、自らの命を賭けたポセイドンの水浸し提案――これまで、いついかなる場合にも、自らに与えられた困難に毅然として立ち向かってきた沙織が、わなわなと唇を震わせてそう言うのである。
サガは彼女の前に深く頭を垂れ、馬鹿馬鹿しさ最上級のアテナの命令を、威儀を正して受け入れるしかなかった。

「は……かしこまりました。黄金聖闘士たち全員にその旨、しかと伝えておきます」

「そ…そうしてちょうだい。それから、すぐに黄金聖闘士たち全員を招集し、この聖域からリリィちゃんを一掃するのです! 今日中によ。リリィちゃんには、一片の情けも無用! もし情けなどかけてリリィちゃんを見逃したり匿ったりする者があったら、その者はその瞬間からアテナの聖闘士でも何でもありません。地上に仇なす、人類の敵です! 財団からの生活費支給も即刻停止と心得なさい!」

「お言葉、確かに承りました」

リリィちゃん殲滅に努めれば、とりあえず生活費の支給は続けてもらえそうである。
サガは、内心ほっと安堵の息をついて、アテナの前を辞した。


自分と仲間たちの生活の保障を得たことで気が緩んでいたサガは、故に、気付かなかった。
彼が謁見の間を辞去する際、アテナが――否、グラード財団総帥・城戸沙織が――ふと何かを思いついたようにひっそりと北叟笑んだことに。





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