「陛下、今度再開されることになった三部会の開会式用のドレスのことですが……」
「財政難の折り、以前のドレスでどうにかならないかね」

王妃が王に新しいドレスの無心を始めたのを幸い、ヒョウガはシュンを捕まえて、自分の名を名乗った。

「俺はフョードル・アンドロニコフ公爵。新任の――」
「……フョードル?」
その名に首をかしげるところを見ると、その少年は、ヒョウガの名くらいは知っていてくれたらしい。

「ああ、今、ロシアの宮廷にはフョードルという名の大公や公爵が大勢いるんでね、俺はヒョウガという名で呼ばれて区別されてるんだ。先年、日本という島国からロシアに流れ着いた商人につけられた名前だ。彼の国の言葉で氷の河を意味するらしい」
「あ、そうだったんですか。はい、存じあげております。今度ロシアから赴任していらした大使の方ですね。お目にかかれて光栄です」
「知っているのはそれだけ?」
「……」

黙り込んだところを見ると、この少年は、ヒョウガが、ロシアの女帝エカテリーナ二世とポーランド国王スタニフワフ・ポニャトフスキの間にできた庶子だという噂――事実――も聞いてはいるらしかった。
「とても若くて美しい大使殿が赴任していらしたと、女官たちの噂で」

その“事実”には触れずに、女官たちの“噂”を持ち出したシュンに、ヒョウガは僅かに目を眇めた。
どうやら、ロシア宮廷の触れてはいけない公然の秘密は、既にベルサイユ中に広まっている――と考えていいらしい。


「しかし、俺の方は君を知らなかった。こんなに可愛らしい小姓がベルサイユにいたとは」
「僕は……この宮殿では取るに足りない者ですから」
「可憐な花に目をとめたのが俺が最初なら嬉しいんだが、そうでもなさそうだ」
「僕の“噂”もご存じなら、僕には近付かない方が無難です。僕は欧州一富裕な君主の気に入りの貴公子の財産はどれほどのものかと計算を始めています」
「今のフランス王家の赤字を全て支払った釣りでベルサイユを丸ごと買えるくらいかな」

シュンは、ヒョウガのその言葉に微苦笑した。
フランス王家の赤字は国家予算の数十倍に膨れあがっている。
それらを全て支払っても釣りがくるとは、馬鹿げた冗談だと、シュンは思ったのである。
が、シュンはすぐにその苦笑を打ち消した。
それは、ロシアのエカテリーナ女帝の豪奢な暮らし振りを考えると、あながち冗談とも言い切れない――ことなのだ。
今、シュンの目の前に立つ長身の男は、戦争中に、ベルサイユに勝るとも劣らないほど壮麗な宮殿を建て、その宮殿に飾る絵画や彫刻を西欧諸国から高額で買い漁るほどの国力を有している王家の一員なのである。

「で、俺は君にとって魅力的かな」

だが、シュンは、彼の持つ莫大な財産にも、広大な領地にも全く関心がなかった。
シュンが興味を持てるのものは、ある条件を備えた人間の“宝”だった。
その条件を、この新任のロシア大使は満たしていないのだ。

「いいえ」

素っ気ないシュンの返事に、ヒョウガが大袈裟に肩をすくめる。

「それは残念だ」

言葉とは裏腹に、自分に――自分の財産に――シュンが興味を示さなかったことを、彼は喜んでいる――ように、シュンには見えた。






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