「……俺が奴に勝てているのは、俺がおまえの側にいるということだけか」 もちろん、否定の言葉を期待して、氷河は瞬にぼやいてみせた。 瞬は、しかし、すぐには、氷河の望んでいるものを手渡してはくれない。 「兄さんは遠くにいる太陽みたいなものだよ。滅多に顔を出さない、夜が長い太陽」 「奴が太陽なら、さしずめ俺は月か。随分見劣りがするな」 氷河は、真円に近い白い月に視線を投げて、そう言い、わざとらしく肩をすくめてみせた。それまで、ずっと月光を浴びている庭を眺めていた瞬が、やっと氷河を振り返る。 ベランダの手擦りに背をもたれさせて、瞬はまた、白い月のように微笑した。 「月はね、1年に3センチくらいずつ、地球から遠ざかってるんだって。月って、今は地球から38万キロメートルくらいのところで周回してるけど、40数億年前に、月が生まれた時は、月と地球の距離は7万キロくらいしかなかったんだよ。昔の月には、今の数倍の大きさと明るさがあったの。人間が地上に出現したばかりの頃でも、今の倍以上大きくて明るかったんだ。だから、古い神話は日の神と月の神をほぼ対等に扱ってるし、メソポタミアの神話では、太陽は月の子供なんだよ」 「だが、実際は、月はただ地球にへばりついているだけの石ころで、自分の命も持っていない。熱もエネルギーも何もない、不毛の存在だ」 氷河とて、自分が月と同じだと思っているわけではなかった――思いたくはなかった。 もしそうだったとしても――少なくとも月には、瞬を美しく見せる力がある――そんな力をしか有していない。 「人類が地上に生まれてから、幾億組の恋人たちが月と太陽を見上げたのかは知らないけど……」 月を、自分を飾る宝石のように背後に従えて、瞬は氷河を見詰める。 「恋人に、月が欲しいとねだった人はたくさんいたと思うけど、太陽を取ってきてくれとねだった人はいなかったと思うよ」 「…………」 月の光に白く包まれているような瞬の姿に、氷河は軽い目眩いを覚えた。 真夏の陽光の下、冬の月の光の中、暖かい春の花咲く庭、全てが眠りの準備を始める秋。 ありとあらゆる時と場に溶け込み、馴染み、すべてを自然に受け止めつつ、その実、瞬は、すべてを自分を引きたてる物に変えてしまう。 ――そう感じてしまうのが、恋する者の贔屓目なのか、あるいは、瞬の生きる姿勢がそうだからなのか、それは氷河にはわからなかった。 「遠ざかっていくから、欲しいんだ」 その、不自然に自然なものが、自分の従者に向かって、甘い言葉を紡ぎ出す。 「俺は遠ざかってなんかいないじゃないか。いつもおまえにへばりついている」 しかし、甘い唇とは裏腹に、瞬の眼差しは、月の光よりもはるかに意思的な輝きを帯びて冴えている。 「嘘つき」 ほんの一瞬、瞬は皮肉の色を瞳によぎらせた。 「月は冷たい」 しかし、そんな様すら、魅惑的で、 「僕が兄さんを追いかけていっても、氷河は僕を追いかけてきてくれない」 瞬は可愛らしく――美しい。 「だから、僕は兄さんを追いかけていかないの」 瞬の、拗ねているような言葉と仕草に言いくるめられてしまってはいけないことはわかってはいるのだが、 「……瞬」 氷河は、惑わされていたかったのだ。 「僕にとって、兄さんは太陽で、氷河は月で、」 月の光の魔法なのか、瞬が魔法そのものなのか、瞬は、氷河に息つく間も与えずに、魅了の魔法を仕掛け続ける。 「じゃあ、氷河にとって僕は何?」 眩暈を、無理に、氷河は振り払った。 月が月の魔法にかけられてどうするのだ。 ――そう、自らに言いきかせて。 |