「馬鹿らしい」
あまりにも特殊な経験を積んできた聖闘士たちに、それはまさに今更なものだった――らしい。
少なくとも、白鳥座の聖闘士にとっては。

城戸邸ラウンジの中央にある3人掛けのソファを一人占めし、そこに、まるでふんぞりかえるように座っていた彼は、沙織の心尽くしの提案を、実にあっさりと一蹴した。

「馬鹿げた考えだ。今時学歴なんぞ何の役にも立たん。俺たちに、学校に行けだと? 世間知らずで苦労知らずのガキ共と一緒に、『こ・き・くる・くれ・こい・こよ・こ』だの、『富士山麓オーム鳴く』だの、『泣くよ坊さん平安遷都』だの、生きていくのに何の役にも立たないことをベンキョーしろと言うのか」

「…………」
学校に行ったこともないくせに、学校がどういうことを教えるところなのかを、中途半端に知っている手合いは始末が悪い。
沙織は、反駁の言葉に窮した。

「言っておくが、俺は日本の大学検定試験くらいなら、目隠ししていても合格するし、地質学や言語学の学位論文くらいなら――いや、博士号論文だって一晩で書けるぞ。なにしろ、どこぞの爺のせいで、遊ぶところもない辺鄙な場所に修行に行かされて、思いっきり偏った知識を持った教師に、思いっきり偏った教育を受けさせられたからな。修行している他には、本を読むくらいしか楽しみのないところで、遊び盛りの時期を過ごしてきたんだ」

「いいなぁ、氷河。僕の行ったアンドロメダ島じゃ、本1冊手に入れるのも大変だったんだよ」

「…………」
素直に氷河の境遇を羨ましく思ったらしい瞬のその言葉には、さすがの氷河も皮肉や嫌味を返すことはできなかった。
人を励ましたり慰めたりするためでないのなら、人間、不幸自慢や苦労自慢はしない方が賢明である。
自分を不幸だと思える余裕のある人間が、真に不幸だったためしはないのだ。


「まあ、時代が学歴社会じゃなくなってきているのは認めるわ。でも、学校というのは、卒業証書をもらうためだけに行くものじゃなくってよ。集団生活や同年代の友達や……」
「俺たちがここで営んでいるのも集団生活だろう。同年代のオトモダチもいる」

口ではそう言いながら、実は氷河は、同年代の友人など、基本的に瞬がいれば十分だった。

そもそも氷河は集団生活というものが苦手なのである。
瞬がいなかったら、“青銅聖闘士”という集団の中にいられたかどうかも怪しいほどに。

だが、それは沙織も重々承知の上だった。
否、むしろ、だからこそ、この提案なのである。

「こんな特殊な集団じゃなくて――」

沙織は、しかし、ここで少しばかり言い澱んだ。
言いにくかったのである。
『世の中には、完全に信頼し合えない人間との付き合いの方が多いのだから、そういう相手との付き合い方や見極め方も知っておいた方がいいのよ』
――とは。
『愛』を表看板に掲げている女神としては、それは言いたくても言えないセリフだったのである。

沙織が言葉を濁した理由を見透かしたように、氷河が吐き捨てるように言う。
「ともかく、俺はお断りだ。馬鹿の集団の中に混じったら、馬鹿が伝染るからな」
そういう理由で“学校”を拒否してみせたのは、もしかしたら氷河なりの思い遣りだったのかもしれない。

沙織は、溜め息で、氷河のその決定を受け止めた。
「じゃあ、氷河には博士号論文でも提出してもらって、博士号を取ったら、この提案は引っ込めるわ」
「ふん、簡単だ。2、3個リボンをつけてプレゼントするさ」

自信満々で言い切る氷河の説得を諦め、沙織は今度は瞬に尋ねた。
「瞬はどうしたいのかしら?」

沙織に尋ねられた瞬は、ちらちらと氷河の顔色を窺いつつ、少しばかり遠慮がちに、自分の望みを口にした。
「僕は……学校、行ってみたいです。僕の先生は、ためになることをたくさん教えてくれたけど、経済とか機械工学とか、抜けてる分野もかなりあったから……」
「おい、瞬……!」

「でしょう! そうよね!」
氷河の口出しを阻むため、沙織はことさら大きな声で大仰に頷いてみせた。


「あ、んじゃ、俺も! 俺さー、どっかのガッコ行って、甲子園とか高体連とか国体とかいうのに出てみたいんだよなー。んで、一等賞取るんだ」
「星矢、おまえ、正気か !? 」
規則だらけの学校などという組織をいちばん苦手にしそうな星矢も、存外に乗り気である。


「俺はバイオテクノロジーの分野に進みたいから、そちらの基礎を学びたい。地道に畑を耕しているだけの時代でもなくなってきているようだしな」
「紫龍! 大学やグラードの研究室ならともかく、俺たちが行かされそうになっているのは高校なんだぞ! 親のスネをかじっているガキ共がたむろしている!」
「面白そうじゃないか」
紫龍は、無駄に過ごす時間を無駄と考えないだけの悟りの境地に至っていた。






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