「車では行けないよ」 ――という瞬の言葉の意味を氷河が知ったのは、彼等が参詣しようとした神社の名を冠した駅のホームに降り立った時だった。 二人が降りた駅のホームは、朝の通勤列車のラッシュもかくやとばかりに、初詣で客であふれかえっていたのである。 ホームは、人間で渋滞していた。 「何なんだ、これは……!」 「何……って、みんな、初詣でに来た人たちだよ。今日だけで、100万人の人出が見込まれてるんだって」 「100万人だとっ !? 」 瞬は実にあっさりと氷河に説明してくれたが、説明を受けた氷河の方は、100万という数字を聞かされただけでげんなり、だった。 なにしろ、彼の目の前には、わずか10メートル前進するのに4、5分はかかりそうな大混雑が、果ても見えないほど遠くまで続いていたのである。 「抜け出せないのか」 「もう無理じゃない?」 「日本人は、どうしてこう並ぶのが好きなんだ。時間の無駄だ。他人と同じことをして、何が面白い」 この大群衆を前にした、他人と違うことしかできない男の憤りとストレスはかなりのものだった。 瞬が、あまり同情した様子もなく、氷河をなだめにかかる。 「人は、他人と同じことをして、自分が他の人と変わらないことに安心するんだよ」 「そう思えることに何らかの意義があるにしてもだな! この人出は馬鹿げてるぞ!」 「うん。でも、もう抜け出すのは無理だから、我慢して」 「いったん組み込まれたら抜け出せない集団組織というわけか。一種のファシズムだな。正月早々、俺は愚民の列を見せられているわけだ」 吐き捨てるような氷河の口調に、瞬が、溜め息を一つ洩らす。 「氷河の口は文句しか言えないの」 「そんなこともないが」 軽くたしなめた瞬の頬を、氷河の唇が掠める。 「氷河……! こんなとこで何するの!」 「ここにいる奴等と違うことをしてみたくなった」 「もう……!」 瞬は、慌てて、周囲に視線を走らせたが、幸い、氷河の所業には誰も気付いていないようだった。 まあ、苛立った氷河が、初詣で客たちを凍りつかせたりしないだけマシである。 マシなのだと、瞬は無理に思うことにした。 「文句ばっかり言ってたかと思うと、こんないたずら……!」 「いたずらじゃないぞ。これは、年頭にあたっての挨拶だ。意外に気付かれないもんだな」 二人を取り巻いている人の群に阻まれて、瞬はどこにも逃げることができない。 考えようによっては、右に倣えのこの群衆は、氷河にとっては実に好都合な監禁部屋の鉄格子だった。 やりたい放題気分になった氷河が、もう一度、今度は瞬の唇にキスをする。 鉄壁を誇るアンドロメダ星座の聖闘士の防御力も、この人込みの中では無力だった。 瞬は、仕方がないので、チェーンを投げつける代わりに、氷河に向かって小さく叫んだ。 「サッチモ!」 「何だ、それは」 「ルイ・アームストロングのあだ名だよ!」 瞬が口にした“ジャズの王様”の名前を、氷河は気のない様子で受け流した。 「ジャズには興味がない」 とりつく島もない氷河の返事に委細構わず、瞬は彼への非難を続けた。 「彼にインタビューしたイギリスの雑誌記者が、彼の大きな口を見て、『なんて口だ!( Such a mouth !)』って驚いたのが由来なんだって。文句並べたててたかと思うと、こんな人混みの中でこんなことしたりして、ほんと、何て口なの!」 「サッチモの由来は、『 Satchel Mouth 』だぞ。“がま口”。おまえ、どこから、そんなデマを仕入れてきたんだ」 「知ってるんじゃない……!」 氷河に過誤を指摘されて、瞬は思いきり気分を害した――振りをした。 「こういう可愛いミスは指摘しないで黙っててくれればいいのに、ほんと、可愛げのない口なんだから!」 氷河の機嫌を直すことが無理なのであれば、自分が機嫌を損ねた振りをするのが最上の策だということを、瞬は知っていた。 瞬のそれが、“振り”だと承知の上で、氷河も瞬の機嫌取りを始める。 それは、氷河と瞬の、いわば遊びだった。 そして、遊びというものは楽しいものである。 それからしばらく、氷河の口は、機嫌を損ねた(振りをしている)瞬をなだめるために使われることになり、その遊びは、二人が神社を出る頃まで続いた。 二人の“遊び”が終わったのは、瞬が不機嫌の振りをやめたせいではなかった。 初詣で客の群れの中から解放されたところで、二人は、思いがけない人物との邂逅を果たし、おかげで、瞬は不機嫌の振りを続けることが困難になってしまったのである。 「こらーっっ !! 氷河っ! 貴様、仮にも公道で何という恥知らずな真似をしているんだーっっ !! 」 「カ……カミュ…… !? 」 「氷河の先生……?」 まだ不機嫌(の振り)持続中だった瞬の機嫌を取り結ぼうとした氷河が、幾分人影の減った通りで、瞬を捕まえ抱きしめようとした時、彼の上に降ってきたのは、氷河の師にして水と氷の曲芸師、水瓶座の黄金聖闘士・カミュの怒声だったのである。 |