10年前、浦賀に黒船が来航したことがすべての始まりだった。

開国を求めるアメリカに対して、徳川幕府は、諾々とその要望を受け入れ、幕府の政治力の衰えと無策を人々の前に露呈した。
それ以降、国体では、皇室崇拝の尊王派、幕藩体制を維持しようとする佐幕派、幕府と朝廷を両立させた政治体制を採ろうとする公武合体派、対外的には、欧米人の侵犯を受け入れまいとする攘夷派、開国を唱える開国派、等々が入り乱れて世は騒がしくなり、二百数十年続いた太平の世は終わりを告げた。

そんな中で、今から2年前、文久2年の浪士隊募集に参加して入京した近藤、土方、沖田等は、やがて京都守護職を任されていた会津藩のお預かりとなり、『壬生浪士隊』を経て、『新撰組』の名を授かり、同時に“斬り捨て御免の特権”を授けられたのである。


そして、現在。元治元年(1864)の暮れ。
同年6月の池田屋騒動、7月の禁門の変等で、尊王攘夷派志士の斬殺・捕縛の手柄をあげた新撰組は、幕府から恩賞を受け、この12月には、後に新撰組参謀となる伊東甲子太郎らの新しい隊士も加わって、まさに飛ぶ鳥も落とす勢いだった。

新撰組は、無論、佐幕派である。
幕府討伐を企てる薩摩・長州を中心とした勤皇の志士たちを討つことを大儀としていた。


局長の近藤勇、副長の土方歳三、一番隊組長を任されている沖田は、共に農民あがり。
だが、太平の世に慣れ、刀を振るうこともできなくなった武士たちよりは はるかに、彼等は士道を尊んでいた。
沖田は、局長、副長より10歳近く年下だが、入京から彼等と行動を共にしたいちばんの古株隊士で、剣の腕前が立ち、年齢のこともあって、局長・副長たちとは随分と砕けた付き合いが許されていた。

「近藤さんは、あのいかつい身体で結構な風流人で綺麗なものが好きだし、歳さんは強い者が好きだから、君は可愛がってもらえると思うよ。君がいちばん気をつけるべきなのは、やっぱり武田さんだな」
「はい?」
「武田観柳斎。5番隊の組長で、文学師範でもあるイヤミな奴なんだけど、衆道の趣味があって、綺麗な男の子と見ると、すぐに追っかけまわすんだよ。君、危険だな、すごく」

脅かすようにそう言って顔を覗き込んでくる沖田に、瞬は困惑した。
沖田の所作に戸惑ったのか、武田某の話に戸惑ったのかは、瞬自身にもわからなかったが。

「でも、大丈夫。僕が、君の身辺警護を任されたから。副長命令で」
まさか本気で新撰組の一番隊組長が、一平隊士の身辺警護に専念することもあるまいと、瞬は思ったのだが、沖田は、存外に本気で、その副長命令を楽しんでいるようだった。

「あ、あと、平隊士は大部屋でごろ寝してるんだけど、君、そういうの平気? 慣れてなさそうに見えるけど」
「平気です」
「個室をあげたいけど、不公平もできないしなぁ。早く手柄をあげて、出世することだね」

「…………」
新撰組での出世とは、一人でも多くの討幕派の志士を切ることである。
実は、未だに人を切ったことのない瞬は、この人懐こい笑顔の青年が、壬生の狼と呼ばれる人切り集団の一員だということが、どうしても信じられなかった。







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