「綺麗なひとだったね。世界一の美女というのもあながち嘘じゃないかもしれない」 「もっと馬鹿面をしているかと思っていたのに、案外普通だったな」 「ヒョウガってば、もっと別の褒め言葉はないの!」 元スパルタの王妃ヘレンが、トロイの家臣団の前に姿を見せたのは、ギリシャの船団がトロイの港に集結し始めてからのことだった。 今回の戦の原因に不満を隠さない家臣団を、その美しさで説得もしくは鼓舞しようとして、パリスが画策した会見だったらしい。 しかし、それは、あまり良い結果をもたらさなかった。 ヘレンがどれほど美しい女性だったとしても、憎悪や軽蔑のフィルターを通して見える映像には歪みが生じる。 自らの夫を捨てて、平和な国に戦を運んできた女性に向けられる視線は、ほとんどが冷たいものだった。 ヘレンのお披露目の後で、ヒョウガとシュンは、彼等の友人であるアエネアスの館に招かれたのだが、彼の館の一室に落ち着くと、ヒョウガの毒舌はますます冴えてきた。 「しかし、馬鹿なはずだ。メネラオスは、何十人もいた求婚者の中から、ヘレンが自ら選んだ夫だろう。その夫がつまらん男だったとしても、それは自業自得、利口な女なら、大人しく城の奥に引きこもっているはずだ。あの馬鹿女がそうしてさえいれば、トロイは平和な国でいられたものを」 「ギリシャは、ほぼ全ポリスの王が、この戦に軍を率いて参戦してくるそうじゃないか。トロイの国力を考えたら、これは数ヶ月で終わる戦じゃない。戦が長引いた時の自国の荒廃を考えていないギリシャの王たちも皆、馬鹿だ」 「ああ、それから、馬鹿息子のパリスを追放しないプリアモス王も馬鹿だな」 一向に収束する気配のないヒョウガの毒舌に、アエネアスが嘆息する。 「プリアモスは我がトロイの王だぞ。ついでに言えば、俺の妻の父親でもある」 「出戻り娘を有能な若い家臣に押しつけてくれた有難い国王か。やはり馬鹿だ」 アエネアスはトロイ王家の傍系の──とりあえずは、王子と呼ばれることもある男だった。 20代半ば、ヒョウガとは同年代の、だがヒョウガに比べれば、実年齢よりはるかに落ち着いて見える青年である。 この時代、父母を早くに亡くした者、父のわからない者、特に優れた美点のある者は、神の子という託宣を受けることが多かった。 ギリシャ軍に馳せ参じたプティアの王子アキレスは女神テティスの息子と言われているし、パリスがさらってきたヘレンはゼウスの娘と言われている。 早くに母を亡くしたアエネアスは、愛と美の女神アフロディーテの子という託宣を受けていて、事実美しい男だった。 ヒョウガとシュンがトロイの王宮を訪れるまでは、プリアモス王の王女たちを差し置いて、トロイ随一の美貌の持ち主と謳われていたらしい。 金髪碧眼の華やかな美貌のヒョウガや、男性的とは言い難い容貌のシュンとはタイプが異なるが、落ち着いて端正な造作をしていた。 そのアエネアスが、ヒョウガに酒の入った器を差し出しながら、なだめるように言う。 「おまえの腹立ちはわかるが、その馬鹿のもとで生きていくしかない俺たちの身になれ」 「…………」 ヒョウガの腹立ち──というのは他でもない。 ヘレンとパリスのとった行動そのものが、ヒョウガの神経を逆撫でするものだったのである。 ヒョウガは、数年前までは、ギリシャの小国ケファレエアの王だった。 シュンも同じく、レウカスの王子として生まれた。 海峡を間に置いて隣接し、あまり良好な関係になかった二つの国の王と王子が恋に落ち、一方が一方の国に身を寄せることは戦の種を生むことになると判じて、二人は故国を捨てた。 現在、ケファレエアはヒョウガの庶出の兄が、レウカスはシュンの実兄が治めている。 両国の王族や家臣たちは、二人が同時に姿を消したことに、互いに不審の念を抱きつつも、相手に戦を仕掛けることはしなかった──できなかった。 二人が姿を消した事情を知る由もなかった両国の者たちは、戦の口実を見付けることができなかったのである。 そして、二人はギリシャを出て、ヒョウガの友人アエネアスのいるトロイに身を寄せた。 貿易で栄えてきたトロイは、外国人への偏見がない。 その中でヒョウガは、敵対部族の“説得”に活躍し、トロイの兵の指揮を任されるようになっていたのである。 ヒョウガとシュンが、小国同士とは言え、戦の火種になることを恐れて忌避したことを、よりにもよって、アナトリア一帯を支配する大国トロイの王子と、ギリシャ随一の力を誇るミケーネを後ろ盾にしたスパルタの王妃がしでかしてくれたのだ。 ヒョウガに腹を立てるなと言う方が、無理な話だった。 |