武力や知略を用いて、我が身の出世栄達を望む戦国の時代が終わり、徳川幕藩体制が樹立して120年、8代将軍吉宗の時代。 人々は、太平の世を謳歌していた。 下克上の時代には、武力と知略さえあれば、太閤秀吉のように一介の百姓から天下人になることも、一国一城の主になることも可能だったが、戦のない世ではそうはいかない。 徳川幕藩体制下の江戸時代は、武士を武士たらしめる武の力を駆使できない武士たちが、公権力のほとんどを担うという、矛盾をはらんだ時代だった。 江戸幕府初代将軍・徳川家康の偉大さは、天下を統一したことではなく、太平の世を維持継続する仕組みを作ったことにある。 上下の秩序を最優先する儒教精神を組み込んだ幕藩体制。 江戸幕府の初期の将軍たちはまた、幕府の転覆を実現させないために、各藩の経済力を削ぐ仕組みをも作った。 大名に1年交替で江戸と国元に住むことを義務化した参勤交代や、江戸城や江戸の町の整備のための天下普請等によって、幕府は全国の大名たちに多額の費用負担を強いたのである。 それらの支出は藩財政を圧迫し、各藩は固有の軍隊を養い得るほどの財力を持つことが、事実上不可能となった。 各藩は、幕府への反抗どころではなくなり、“お家”の体面を保つための藩経営に汲々とすることになったのである。 それは、弓や刀を用いた戦ではなく、大名家の生き残りを賭けた経済力と政治力での熾烈な戦だった。 そのような世界では、武芸・知略も、個人が人の上に立つためではなく、家のため、主君のため、将軍家のため、ひいては、それらを形成する組織の維持運営のために用いられるべきものとなる。 主君を頂点とする組織の維持のために、命を賭して忠義を尽くす──それが武士の美徳とされた時代。 264年間の太平の世──江戸時代──とは、そういう時代だった。 |