「その方の才覚を見込んで、内々に頼みたい仕事がある」 「は」 徳川幕藩体制下では、老中等に就任している一部の者を除いた大名たちは、1年おきに国元を離れて江戸で勤めを果たさなければならないことになっていた。 10日前に、その江戸詰めから戻ってきた水瓶藩藩主・神居上総介は、表座敷ではなく私室に氷河を呼び、人払いをさせていた。 8畳ほどの部屋の上座に座る上総介は、氷河より6歳ほど年長。 なかなかの美丈夫で、考え方も先進的かつ合理的。 知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の再来と言われることもあるほどの知恵者で、何よりも運のいい男だった。 江戸屋敷にいる正室は現将軍家の姪にあたる紀伊家の姫君で、嫁いで5年のうちに三男一女を儲けるという、大名の正室としては、文句のつけようもない見事な仕事振りを見せてくれた。 元々、女色より仕事の方に意欲的な上総介は、江戸屋敷はもちろん国元にも、側室は置いていない。 大名ともなれば側室を蓄えるのが男の甲斐性という風潮がないでもない世の中で、これは将軍家の姪である正室を喜ばせ、彼の正室は、事あるごとに夫の誠実を伯父である将軍家に言上しているという。 要するに、奥に乱れはなく、夫婦仲は睦まじく、将軍家の覚えもめでたく、藩の経営も順調。 氷河の主君は、氷河以上に順風満帆の男だったのである。 「内々の仕事、とは?」 事前に用向きを聞かされていなかったせいもあり、対面した主君の、いつになく深刻な表情を認めた氷河は、改めて気を引き締めることになった。 1年間、国元を留守にしていた間の報告と賞罰を一段落させた藩主は、また何か新しい改革を断行しようとしているに違いないと考えて、氷河は主君の前で居住まいを正したのである。 が、上総介の口から出てきた言葉は、思いがけないものだった。 「その方のな、我が藩随一と謳われている美貌を見込んで頼みがあるのだ」 「は?」 主君に容姿を褒められたことは、氷河はこれまで一度もなかった。 武士の外見が重要視されるのは、前髪立ちの小姓くらいのものである。 そして、若くして主君の側に控える小姓には、譜代で、かつ、それなりに名のある家の子弟が任命されることが多い。 無名と言っていい小家の出の氷河には、それは無縁の役職だった。 主君の言葉を怪訝に思い、微かに眉をひそめた氷河の前で、上総介がふいに相好を崩す。 同時に上総介は、その口調までを、微妙にくだけたものに変えた。 「いや、先日、江戸家老の城戸家の次男が小姓として城にあがってきただろう」 「瞬のこと──いえ、城戸家の瞬殿のことですか」 「瞬? なんだ、知り合いか」 「城下の道場で、同じ師から教えを受けておりましたので。師範代として、指導に当たったこともあります。藩校の後輩でもありますし」 忠義心ほどには剣術が重視されなくなったといっても、武芸は武士が武士として存在するための根拠である。 武芸のみを誇る者は軽視される傾向があったが、それは、武芸が、武士たる者はたしなんでいて当然の基本的心得だったからである。 水瓶藩の藩士の子弟は、特別な事情がない限り、城下の道場と藩校で集団教育を受けることが義務とされていた。 瞬が城にあがる以前から、瞬は氷河の知己だった。 氷河の言葉に、上総介が頷く。 「家老の自慢らしい」 「それはそうでしょう。剣の方も、学問の方も、熱心で真面目な上に筋がいい」 「容姿の方も優れておるしな。天は、一人の人間に二物三物を与えることがあるようだ」 「──それが、どうか?」 「いいことだぞ。その方にしても、瞬にしても、有能な美形が我が藩内に授かるのは、藩主として喜ばしい限りだ」 「はあ……」 主君の意図が掴めずに、氷河は更に眉をひそめた。 無論、瞬が美形だという評価に異存はない。 その上、瞬は、藩で代々家老職を務める家に生まれ、家格・血筋にも恵まれていた。 妬み羨んでもいいことだと思うのだが、しかし、氷河は瞬に対してそういう感情を抱いたことはない。 氷河にとって、瞬は、素直で可愛い後輩だった。 氷河が上総介に目をかけられ出世の道に乗る前から、道場でも学問所でも、家格を鼻にかけることなく、兄弟子として氷河を慕ってくれた。 しかも、瞬は、彼に慕われることを快いものと感じさせるような容貌と性格の持ち主で、要するに氷河は、以前から瞬を憎からず思っていたのである。 瞬の優しい印象の強い面差しを思い浮かべて、氷河は、我知らず目を細めた。 そこに、突然降ってきた上総介の言葉。 「その方があの子と知り合いなら、話は早い。実は、あの前髪立ちの可愛らしい様子に、一目惚れしてしまっての」 上総介の言葉には主語がなかった。 「……どなたが、瞬に一目惚れしたのです」 「私だ」 「は?」 それは、氷河にとって驚天動地の“主語”だった。 |