政敵の家の者や狼藉者にさらわれたわけではなく、それは もとからの約定の実行――だった。
そして、姫が連れ去られた先の家の内外は、武芸に優れた武士団に守られている。
これが他家の者が為した無礼であったなら、宗家の当主は奪われた姫の奪還を氷河の祖父に依頼していたことだろう。
しかし、今度ばかりはそれはできない。

結局大人たちの間では、奪われた姫の処遇に関して、養育にかかる費用や姫のものとなる荘園、氷河や姫が実質的婚姻に至る前に死んだ場合の対応等、こまごまとした決め事が為され、姫は彼女の許婚の家で育てられることになったのである。
招婿婚――いわゆる、男が女の許に通う 婿取り婚――が婚姻の一般的な形態とされていた時代に異例なことではあったが、氷河の祖父はそういった因習に頓着するような男ではなかった。

その取り決めが為された後も、宗家の北の方から姫を取り戻したいという要望は幾度も出たのだが、氷河の祖父は頑としてそれをはねつけた。
そんなやりとりが、最初の数年間は両家の間で断続的に続いていた。
が、姫が4歳になった頃、姫の実母が流行り病で亡くなり、忠通が娶った新しい妻が女児を産むに及んで、そのやりとりも途絶えがちになり――やがて、氷河の許婚は藤原宗家から忘れられた存在になってしまったのだった。

氷河の祖父の目的が、藤原氏嫡流の姫を孫の妻にすることで 一門内の立場を強いものにしようというものであったなら、彼の目論見は外れたことになる。
だが彼は、睦まじく遊ぶ幼い許婚たちの姿を眺め、満足したように笑いながら他界した。
いつか侍たちが強い力を持つ時代がやってくると、繰り返し祖父に言い聞かされていた氷河は、その時7歳になっていた。

3歳年下の許婚は大変に可憐な姫で、氷河はもちろん、氷河の父母も彼女を実の娘のように可愛がっていた。
氷河も、常ならぬ端正な容姿に恵まれた少年だったので、二人が共にいる様子は花が戯れあっているように美しく、世の中の事情がどう変わっても、氷河の両親は、その美しい一対を引き離す気になれなかったのである。
何よりも、当の二人がそれを望んでいた。

姫についてきた乳母が、突然、姫に男君の格好をさせてはどうかと言い出したのは、姫が10歳になった頃。
「最近、この屋敷を垣間見している怪しげな者共の姿をよく見かけるのです。光源氏と若紫の例もあります。乳母の私が申し上げるのも何ですが、姫君はまだ幼いとはいえ、非常にお美しく、その美しさに惑わされてけしからぬことを考える不届き者も多いことでしょう」

大切な総領息子の許婚である。
氷河の父はすぐに屋敷周りの警戒を厳重にすることを乳母に約束したのだが、彼女はそれだけでは安心できなかったらしい。
「いっそ姫様に若君の格好をさせてはいかがかと思うのです」

「姫に男の格好を? 怨敵調伏などから逃れるために異性の衣装を身に着ける話は時折聞くが……」
そういう事実もないのに、歴とした家の姫が、芸や身体を売る白拍子か何かのように男装をするなど、あまり外聞のよい話ではない。
「ですが、この風紀の乱れた世のこと、姫君が災厄に見舞われましたら、姫君も傷付きましょうが、若君のお嘆きとお怒りはそれだけでは済みますまい。あのように仲のよろしいお二人ですから……」
「…………」

乳母の主張を聞いて、氷河の両親は黙り込んでしまった。
氷河の気性の激しさは 実の父母がよく知っている
氷河に比べれば はるかにおっとりした性質の姫がついているから、かろうじて氷河は専横者にならずに済んでいる――ようなところがあった。

そして、姫の乳母の言う通り、昨今の世の風紀の紊乱は目を覆いたくなるほどひどいものだった。
なにしろ、今現在国政を牛耳っている鳥羽上皇が その先鋒を担っている。
彼は、彼の祖父である白河上皇と待賢門院たいけんもんいん璋子たまこなる女性を共有し、数年前に退位した崇徳天皇は、彼女と白河上皇の子とも 鳥羽上皇との子とも言われている。
つまり、待賢門院は、同時に祖父と孫の二人と関係を持っていたのだ。

それは、しかし、ささやかな一例に過ぎない。
鳥羽上皇は、祖父同様、男色・女色共に精力的で、彼の寝所にはべった者の数は知れない。
そういった権力者たちの乱行は、当然のことながら、彼等に仕える公家衆の内にも浸透している。
鳥羽上皇の寵幸を受けている左大臣藤原頼長――姫の叔父に当たる――も、男女両刀の漁色家として名を馳せていた。

そんな世の中である。
姫はまだ10歳になったばかりと、たかをくくってもいられなかった。
そんな嘆かわしい世相を知ってか知らずか、それまで両親と乳母のやりとりを脇で聞いていた氷河が、ふいに口を挟んでくる。
「その方がいい。あの着物は、遊ぶのに邪魔なんだ。姫は、俺と一緒に乗馬や剣術の稽古をしたいと言ってた」

「仮にも藤原宗家の血を引く貴族の姫が剣を振るうなど……」
男の姿格好をするだけならまだしも、馬や剣術などもっての他である。
そもそも息子が公家の子弟らしくもなく剣術の習得に勤しんでいることすら あまり好ましく思っていなかった氷河の父母は渋い顔になったが、氷河は引かなかった。
「俺が稽古に出ている間、姫は一人で寂しいんだ。姫はいつも俺と一緒にいたいと言っていた」

得意げに そう言い募る氷河に、結局、氷河の父母は負けてしまったのである。
翌日から姫は男装束である直衣のうしを身に着け、奥の部屋から表に出るようになった。
さすがに屋敷から出るようなことはしなかったが、姫は、家の敷地内では氷河の行く所どこにでも付いていくようになり、呼び名も瞬と改めてしまったのである。

貴族の姫が人前に顔を出すなど言語道断の世に、瞬の大胆さには氷河の父母も呆れ果てることになったのだが、どこに行くのも二人一緒の許婚同士の仲睦まじさを見ていると、つい彼等の顔もほころぶ。
瞬は、姫というには少々快活に過ぎたが、でしゃばりなわけでもなく、無論実家の権勢を鼻にかけるようなこともしない。
瞬は容姿性格共に息子の許婚としては申し分なく、氷河の父母も口出しはできなかった。

そんなふうにして、4年余り。
氷河の父母がそろそろ二人に本当の結婚をと考え始めた頃、それまで仲睦まじいこと この上もなかった二人の様子に変化が――あまり好ましくない変化が――現われ始めた。






【次頁】