何の益もない自分を慈しみ育ててくれた養父母を騙し続けることは不孝ではないのか、そして、あの狡知に長けた悪左府がこのまま大人しく引き下がるのか。
瞬の不安と怖れは決して霧散したわけではなかった。
だが、氷河に抱きしめられると、恐いものがなくなってしまう――。

しきたり通りに3日間瞬の許に通い、『露顕の儀』と『三日夜の餅の儀』を済ませ、瞬との婚姻が成立した後も、氷河は一日の間を置くこともなく、瞬の許で夜を過ごし続けた。
家中の者たちは、「いったい うちの若様はどこまで記録を伸ばすつもりなのか」と話の種にして、中には賭けをしている者たちもいるようだったが、氷河がそうしてくれるのは自分の不安を消し去るためなのだということを承知している瞬は、ひたすら氷河の気遣いに感謝していた。
もちろん、氷河との共寝は、そのたび瞬に気が狂いそうになるほどの歓喜をもたらしてくれたし、氷河もその方面はかなり好きではあるようだったが。

氷河の記録が30の大台に乗り、家中の者たちもさすがに呆れ始めた頃――悪左府を毛嫌いしていた近衛帝が崩御したという宣布が朝廷から出された。

「――これで朝廷での権力図が変わるぞ」
梅雨はとうに明けていた。
晴れた夏の午後に氷河にそう言われた時、瞬は言いようのない不安に襲われたのである。
敵対していた帝が亡くなったことで、上皇の寵愛をかさにきた叔父がますます増長し、氷河に何らかの謀略を仕掛けてくるのではないか――と。
だが、氷河は、まるでそんな心配はしていないようだった。

「おまえが心配しているようなことは起こらないから、安心しろ。近衛帝の崩御は悪左府の呪詛のせいだという密告が朝廷にあった。悪左府は失脚する」
「氷河……」
氷河があまりに確信に満ちて断言することが、瞬の中に別の不安を生む。
氷河が叔父を失脚させるための陰謀に関わるという危険を冒しているのではないかと、瞬は疑いの心を抱いたのである。

「案じるな。残念ながら俺は何もしていない。俺も驚いている」
「ほんとに……?」
それでも不安な気持ちを消し去れずにいるらしい瞬に、氷河ははっきりと頷いた。

氷河は本当に何もしていなかった。
悪左府の呪詛を朝廷に密告したのは瞬の乳母で、そうするつもりだと告げた彼女を、氷河は止めなかっただけだった。
同じ人の幸福を願う者として、彼女の並々ならぬ決意を翻させることが、氷河にはできなかったのである。

氷河が初めて瞬を抱きしめた夜に、瞬の代わりに悪左府の屋敷に乗り込んだ乳母は、瞬の土壇場での翻意を知った悪左府が口汚く瞬をののしる様を見て、その決意をしたのだという。
呪詛が実際に行なわれていたのか否かは、乳母は氷河にも告げなかった。

氷河の中にも、これでよかったのだろうかという迷いはあった。
氷河はやはり陰険な策謀家にはなれない男であったから。
しかし、自分の身を案じてくれる瞬の様子を見て、氷河の迷いは消えた。
瞬の心を安んじさせるために、悪左府には消えてもらわなければならなかった。
是を非とし、非を是にしても。

悪左府は多くの人間の恨みを買いすぎていた。
彼女がそれをしなくても、これはいずれは彼の行き着く結末だったに違いなかった。
「反目し合っていたとはいえ、近衛帝は鳥羽上皇の実の息子だ。藤原氏の干渉を嫌って院政を布いている上皇は、臣下の身で思い上がりも甚だしいと怒り心頭に発している。おまえが俺のために馬鹿な考えを実行しようとしても、もうできないぞ。俺も安心できる」

「本当に。瞬様が氷河様の身を気遣うお気持ちはわかりますが、分別の無い軽挙は、かえって氷河様の妨げになりますしね」
「……うん」
母とも慕う女性に諭すようにそう言われてしまっては、瞬も素直に頷くしかなかった。

「帝がお隠れになったことで世の中がどう変わっていくのかは、私ごときにはわかりませんが、世の中を動かすのは、大きな権力や、呪詛や祈祷だのの不思議な力ではなくて、大切な人の幸福を願う人間の心だと、私は思うんですよ。氷河様を思う瞬様のお心が消えない限り、きっと大丈夫。みんなが幸せになれますよ」

瞬にそう告げる共犯者――同じ大切なものを守ろうとしている共犯者――と一瞬視線を交し合ってから、氷河は瞬のために微笑を作った。
「そうやって人は生き続けてきたんだからな」

信じている二人にそう言われた瞬は、だから、自分の意思で胸中の不安を消し去ることをした。
その気持ちだけは、決して失わない自信がある。
ならば人は必ず幸福に至れると、否、その気持ちを有していることが既に幸福なのだと確信して、瞬は彼等に頷き返したのである。

熱い季節がこの国に訪れようとしていた。
日本史上初めての武家による政権が鎌倉に樹立される半世紀前のことである。












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