ギリシャでも、もちろん遺跡・遺物の類は大事にされている。 何といっても、それらは かの国にとって非常に重要な観光資源なのだ。 ミロのビーナス、サモトラケのニケ、パルテノン神殿のレリーフ――発掘品の国外持ち出しを禁じる法を整備する以前に 多くの重要な遺物を失った経験から、ギリシャ政府は、たとえ正規の手続きを踏んだにしても、それらのものが国外に出ることを快く思わない。 今回のイベントの開催が実現したのは、この季節がギリシャ観光のオフシーズンだったことと、沙織の人脈と、何よりもグラード財団の持つ金の力が大きかった。 つまり、それらの展示品は、外貨を稼ぐための季節労働者として日本にやってきたのである――『西洋と東洋の文化交流のため』という大層立派な肩書きを携えて。 その、ギリシャからの季節労働者たちの警備は実に仰々しいものだった。 アテネの博物館では雑然と並べられていた石のかけら一つ一つ、青銅器の破片一つ一つにも特注の説明プレートがつき、強化ガラスのケースに収められている。 だが、それらの遺物のアテネでのなおざりな扱いを知っている氷河にも、その厳重な警備を大袈裟すぎると一笑に付してしまうことはできなかったのである。 それほどに、展示会場の人出は相当のものだった。 歴史おたくなのか、あるいは にわかインテリゲンチャを気取った者たちなのか、それは氷河にもわからなかったが、とにかくそこには老若男女を問わず半端ではない数の人間たちが集まってきていた。 わざわざ初日を外し平日を選んできたのに――と、氷河は想像以上の人の波を見て我知らず嘆息してしまったのである。 考えてみれば、グラード財団総帥が企画したイベントが盛り上がらないわけがないのだ。 『金は寂しがりやだから仲間のいるところに集まる』という たわ言を、氷河は思い出すともなく思い出していた。 が、ものは考えようである。 瞬は人混みが苦手なはずだった。 今「今日はもう帰ろう」と言えば、瞬もその気になってくれるかもしれない。 そうなることを期待して、氷河が彼の隣りにいる瞬に視線を投げた時だった。 「あ、あった!」 ひどく嬉しそうに瞳を輝かせた瞬が、短い歓声をあげたのは。 瞬は、人垣の向こうに自分のお気に入りを見付けたらしい。 順路を無視し、目的の展示物に向かって駆け出そうとした瞬は、ゆるゆると展示品を眺めている他の客たちの存在に気付くと、意識してゆっくりした足取りになり、だが一直線に彼の“お気に入り”の側に歩み寄っていった。 広い展示会場の最も奥まった場所の中央に、それは 堂々と立っていた。 瞬に展示順路を無視させた彼の“お気に入り”は、大理石でできた等身大の、なんと男性裸体像だった。 周囲にロープが張られ、前後左右からの鑑賞ができるようになっている。 残念ながら頭部は失われていたが、全体が やや下方に差し出されている右手は何かを掴もうとしているかのように半開きになっている。 が、その先に、彼が手にしようとしている何かは存在していない。 台座の右前方部分が何らかの力によって砕かれたような形になっているところを見ると、本来は彼の右手の先に何かがあったのだろう。 アテナ像でいうなら随神ニケが失われているような、ポセイドン像でいうなら三叉の矛が失われているような、そんな中途半端な印象を、氷河はその像に抱いたのである。 彼の足元にある説明プレートには、氷河の推察を裏付けるような説明文が記されていた。 その像が20世紀初頭にサントリーニ島から発掘された時、像の周囲には同質の石の破片が数多く 存在し、それは砕けた台座の破片ばかりとは考えにくい量だったこと。 彼はその右手に酒器か武器、あるいはそれ以外の何かを持っていたものと思われるが、考古学者たちの意見は諸説あって定まっていないこと――等。 この男が何を手にしていたのか、あるいは何を手に取ろうとしていたのか、そんなことの推論にどういう意味があるのか――と、氷河は思ったのである。 それはミロのビーナスの両腕がどうなっていたのかを考えるようなもので、わかったとしても意味はなく、むしろ謎を謎でなくすることによって、つまらない現実を知ることになるだけだろう――と。 いずれにしても、氷河は、学者たちの そんなことよりも はるかに重要で深刻な問題が、今 彼の目の前には横たわっていたのだ――もとい、立ちはだかっていたのだ。 |