アテナイの国の政治は王と神殿の神官たちの協議によって決定される。 王宮とアテナの神殿であるパルテノンは、壮麗な庭を共有する形でアテナイの中心に向き合って建っており、王もしくは神官であるならば、自由な行き来が認められていた。 その庭を通ってヒョウガは、年に一度国を挙げて執り行われるパンアテナイア祭の準備に追われている神殿に向かった。 神殿の奥まったところにある小部屋で、ヒョウガの幼い頃からの友人であるシュンが、祭の最後にアテナに奉納する シュンの細い指先が光沢を帯びた白い絹に触れる様は、不思議になまめかしく、それでいて神聖に見える。 神官見習いの白いキトンを身に着けたシュンは、まもなく16になろうとしているのに、手足はまだ子供の風情を残して細く、編み上げのサンダルを履いた脚は少女のそれのようになめらかだった。 女神にペプロスを捧げる聖処女の役をシュンに務めさせれば、国民はそざや感嘆し、処女神アテナも喜ぶだろうにと、ヒョウガは思ったのである。 「シュン」 「あ、ヒョウガ」 ヒョウガがその名を呼ぶと、シュンはいつもの笑顔を、彼の年上の幼馴染みに向けてきた。 両親が何者かも知れぬ孤児で、この神殿の神官長に拾われ育てられた身だというのに、その瞳に陰りのようなものは全くない。 「手伝おう」 「王様が御手ずから?」 言葉だけは恐縮してみせるシュンに、ヒョウガは両の肩をすくめた。 「この国の王は俺ではなくアテナで、アテナの意は神殿の神官共が民に示す。俺はただの飾りだ。名誉と理性を重んじ法を守る出来のいい国民は俺に手間をかけさせないし、戦いの女神に愛されているこの国を攻めてくる愚かな国はないし、俺にできる仕事と言ったら、祭祀の時に国の民を代表して神に感謝の言葉を捧げることと、その祭りの準備の手伝いくらいのものだ」 多分に投げやりな口調で、ヒョウガは自嘲した。 シュンが一瞬眉根を寄せてから、小さく首を横に振る。 「ヒョウガは綺麗だから、ああいう晴れやかな舞台での所作の一つ一つがとても映える。神に対峙しているヒョウガを見てると、僕はこの国の民であることが誇らしくなるけど」 「見てくれより中身を評価してほしいもんだ。――俺には、その機会も与えられないが」 「中身だって評価してるよ。ヒョウガはとても優しい王様だ」 「ただの飾りに過ぎなくても、仮にも一国の王に『優しい』は褒め言葉にならないだろう」 不満げにそう言って、ヒョウガは幾枚もの絹の衣装が広げられているテーブルの脇にあった 樫の木の椅子に腰をおろした。 ヒョウガは今日も 若く壮健で気安い王は、既に自らの荘厳を演出する気もないようだった。 「どんなふうに褒められたいの」 仕事の手を休めずに、シュンがヒョウガに尋ねてくる。 「判断力があるとか、決断力があるとか、実行力があるとか、人心掌握の術に長けているとか、戦上手だとか、それなりの――」 どうやら強国アテナイの王は拗ねているらしい。 シュンは口許に微笑を刻んだままで、若い国王の心を和らげる作業に取りかかった。 「判断力はあると思う。世の中には、実利を伴わない名誉を求めて不必要な戦争を始めたり、傲慢の罪を犯して、神の怒りを買ったりする国王様がいくらでもいるみたいだもの。そして、国民を苦しめて、時には国そのものを滅ぼしてしまう。ヒョウガはそんな愚かなことをしない。国の平和のために、自分の力の抑制も欲望の抑制もできている。素晴らしい王様だと、僕は思ってるよ」 シュンが本気でそう思っていることがわかるだけに、ヒョウガは溜め息をつくしかなかったのである。 シュンがそう思っているだけでなく、事実もそんなところなのだ。 「名誉を求めようとか傲慢になろうとかすると、おまえがそうやって俺をなだめるから、俺は血気に逸った愚王にもなれない。おまえはどうせ神官長あたりに、俺が暴走しかけたら うまく御するように言われているんだろう」 「そんなつもりじゃ……僕は本当に……」 ヒョウガに皮肉な口調でそう言われたシュンは、切なげに瞼を伏せたのである。 シュンが養父である神官長に似たようなことを言われたことは、確かにあった。 『子供の頃から無鉄砲で無謀なところのあったあの国王が、幼いおまえを認め、気に入り、長い友情を育むことになったのは天の采配だ。王が激しやすければ激しやすいほど、おまえはその穏やかさで王の心を静め やわらげてやらなければならない』 シュンはいつも養父にそう言われていたのだ。 神官長がシュンに何を言ったとしても、それは私利私欲のためではなく国を憂えてのことである。 ヒョウガも、それがわからないわけではない。 ヒョウガはシュンを責めるつもりはなかった。 ただ少し拗ね甘えて、シュンを困らせてやりたいだけだった。 ヒョウガは、目を細めて、ひどく控えめに瞼を伏せた彼の幼馴染みを見詰めた。 シュンは美しかった。 初めて出会った時から――それは互いに幼い頃だったが――シュンに出会うたびに、ヒョウガはその思いを強くしてきた。 恵まれた境遇にあるわけではないのに暗いところがなく、野に自然に咲く清楚な白い花のように、与えられた運命に逆らうことをせず、シュンは己れの生を懸命に生きている。 希望はあるのに欲はなく、それでいて自身の無欲を誇ることもしない稀有な人間。 実際 自分が愚王にならずに済んでいるのはシュンのおかげだと、ヒョウガは思っていた。 そしてヒョウガは、この幼馴染みがとても好きだった。 ヒョウガがシュンに関することで気に入らないことがあるとすれば、それはシュンに人間らしい欲がなく清らかすぎることくらいで、ヒョウガは時折、この花を根こそぎにして いたぶってやりたいという衝動にかられた。 だが、そうすることはできない。 ヒョウガはシュンに嫌われることが恐ろしかった。 一国の王が無力な孤児を恐れるような状況が世間一般に何と呼ばれているのかをヒョウガが知ったのは、彼が今のシュンほどの歳の頃。 世の人々は、それを『恋』と呼ぶらしい。 自分は、神官長が心配するほど無謀な男ではないし無鉄砲な男でもないと、ヒョウガはシュンを見るたびに思っていた。 アテナイの王は、恋の前に |