「ヤ……ヤマタノオロチって、首が8つあって、尻尾も8つあるっていう蛇の化け物なんでしょう?」
瞬は、決してその事実をごまかそうとしたのではない。
バレていることを、今更 隠蔽しようと考えたわけでもなく――ただ気恥ずかしくて、話題を別のところに持っていきたかっただけだった。

「8つの山と8つの谷を覆うほど巨大な化け物だったということになっている。腹からはいつも赤い血が流れていたという話だ」
瞬の気持ちを察したのか、紫龍は瞬が提供した話題に乗ってきてくれた。
ほっと安堵の息を洩らして、瞬が少々ぎこちない笑みを作る。
「聖闘士でも太刀打ちできないね」

「まあ、ヤマタノオロチは、実は斐伊川ひいかわ周辺の河川の氾濫を表しているのだという説が有力だがな。他にも、オロチというのは、鉄の産地だったあの地方そのもののことで、オロチ退治はその地方を別部族が支配するに至った戦のことを言うのだという説もある」
「そうなんだ」

瞬がイメージしていたヤマタノオロチは、せいぜい特撮映画に出てくる怪獣程度の大きさの化け物だった。
それが山を8つも覆うほどの巨体の主とは、瞬は思ってもいなかった。
だが、だとすれば、なるほどヤマタノオロチが生き物であるとは考えにくい――と、瞬が納得しかけた時、
「どっちにしても、スサノオは、化け物なり河川の氾濫なりと命懸けで戦って、妻を手に入れたわけだ。棚からボタモチでおまえを手に入れた氷河とは大違いだな」
紫龍が彼の結論を口にする。
瞬がどんなに足掻いても、話は結局そこに戻るのだ。
瞬は無駄な足掻きをやめることにした。

「ぼ……僕はボタモチなんかじゃないよ。少なくとも僕は、氷河が好きだから、自分の意思で氷河のところに行ったんだ」
「やっぱ、したんだ!」
突然、星矢が異様に威勢のいい大声を室内に響かせる。
瞬は驚いて、目をぱちくりさせた。

要するに星矢たちは、『おそらくそうだろう』と察してはいたが、確信を持つには至っていなかった――らしい。
自分は、仲間たちの念の入ったカマかけに引っ掛かってしまったのだということに気付き、瞬は頬を真っ赤に染めて顔を俯かせることになったのである。

一方、もう一人の当事者であるところの氷河は――彼は、仲間たちの不当な評価に大いに憤っていた。
これまで、彼は決して棚からボタモチが落ちてくるのを 手をこまねいて待っていただけではなかったのである。
昨晩に至るまでの間に、氷河は苦労に苦労を重ね、気遣いに気遣いを重ね、忍耐に忍耐を重ねてきた。
瞬は奥手だし、なにしろ“清らか”だし、好きと告白したあとも2人が一緒にいられればそれだけで嬉しいなどと、傍迷惑なほどに可愛らしいことを堂々と主張していた。
瞬を恐がらせたり嫌悪感を抱かせたりすることなしに、2人だけの感動の夜を迎えるために、氷河は化け物と戦いこそしなかったが、それ以上の苦労はしたと自負していたのだ。

――が。
氷河は今ここで、そんな苦労話を披露するわけにはいかなかったのである。
特に 瞬の前では絶対に。
自分に恋する男の苦労話を聞いた瞬が、それを健気と思うか、あるいは浅ましいと感じるのかの判断を、氷河は為すことができなかったのだ。
いずれにしても、苦労を誇るなど、見苦しいこと この上ない行為である。
他の誰でもない自分のために、結局 氷河は沈黙を余儀なくされてしまったのだった。

いつのまにか その場にやってきていた女神アテナこと城戸沙織が、
「そうねえ。スサノオはヤマタノオロチと戦ってクシナダ姫を手に入れ、ペルセウスはティアマトと戦ってアンドロメダ姫を手に入れ、聖ゲオルギウスはドラゴンと戦って聖人の名を得ているのよね。氷河だけが楽をして目的のものを手に入れるというのは 不公平というものだわ」
と、そんなことを言っていたような気がする――。






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