「なんで、こんなものが口をきくんだーっっ !! 」 「こんなものとは失礼な。モノを外見で判断するのはナンセンスです。人間のように無様に重い身体を持っていない分、僕は軽快に動くことができる」 「外見以外の何で判断しろっていうんだ! 人間ならまだしも、ノシだぞ、ノシ! おまえ、自分がノシだということがわかっているのかーっ !! 」 狂気の沙汰としか思えない奇天烈な物体を掴まえて細かく引きちぎってしまえば、この狂気の世界も消えてなくなってくれるかもしれない――そう考えて伸ばされた氷河の手から、彼(?)は、その言葉通り、実に軽快な所作で逃れてみせた。 「乱暴はやめてください。もちろん、僕は、自分がノシであることを自覚していて、そのことを誇りに思ってもいます」 ノシの誇り。 それはいったい何なのだと、氷河は気が狂いかけた頭で必死に考えようとしたのだが、彼の脳は、損傷の様子もないのに作動しようとしないセスナ機の計器同様、全く動いてくれなかった。 一向に働く気配を見せない思考力の代わりに氷河を支配したものは、感情――それも絶望という名の感情だった。 「こんなことなら、正気でいるうちに瞬ともっと やっておくんだった。俺はもう瞬とは顔を合わせられない。俺はもう瞬の許には戻れない……」 氷河の身に降りかかった不幸の重みは、彼の両膝と両手をがくりと砂の上に押しつけることになった。 氷河の手の下で さらさらと嘲笑うように声をあげながら、砂が流れていく。 中天にある太陽は そんな砂たちに呼応するように明るく照り輝き、この世界にある氷河以外のものは、みな楽しげだった。 ただ一人(一枚?)、ノシの王子様が怪訝そうな口調で、氷河に尋ねてくる他は。 「瞬さんというのは、あなたの恋人ですか? あなたは気が狂ってしまうと、 何を『やれない』のかを――氷河の苦悩の訳を――ノシ風情が理解しているとは思えない。 わかっていないことを、いかにも意外そうな声音で尋ねてくるノシに、氷河はムカっ腹が立った。 「当たり前だっ! キちがいが瞬に惚れてるなんて、そんな事態はあっていいことじゃない。瞬が傷付く。瞬が困る。瞬に迷惑がかかるだろう!」 「随分、常識に囚われた恋をしているようですね。気が狂ってしまったダンサーを死ぬまで世話し続けた妻を、僕は知っていますよ」 ノシがいったいどこからそんな知識を仕入れてきたものやら。 氷河は彼に尋ねる気にもなれなかった。 ノシが生まれた工場で その手の本が印刷されていたか、ノシのお仲間がそういう本の1ページになったか、だいたいそんなところなのだろう。 「ニジンスキーの妻のことか? あの女は結構な策略家で、苦心して手に入れた天才の妻の座にしがみつくことで、自分のプライドを守ろうとしただけのことだろう。ニジンスキーが正気だった頃、共に過ごした時間の栄光の残滓が、妻の一生を支配しただけだ。だが、俺はつい1週間前に瞬に好きだと告白したばかりで、デートなんてものも、まだしたことがなかった。寝たのもたった一回きり……」 まさかあれが二人の最後の夜になろうとは。 初めて瞬の裸身を その目に映した時、氷河はこんな事態が我が身に起こり得る可能性を考えてもいなかった。 恥ずかしがり怯えてさえいるようだった瞬を これから少しずつ慣らしていって、いつか 瞬の方からこれを求めさせるようにするのだと、最初で最後のあの夜、氷河は意欲と野望と決意に満ちていた。 そうしろと言われたわけでもないのに、瞳を潤ませ、そそる声を洩らし、肌に熱を帯びて身悶え喘ぐ瞬の様子を見て、氷河は自身の野望が そう遠くない未来に達成するだろうことを確信した。 瞬の中の気持ちよさに驚喜し、己れの幸運に小躍りしたい気分になり、これからの二人の人生には喜びしか待っていないのだと、彼は疑いもなく信じていたのである。 あの時、瞬の身を案じて 人並みにデートをしようなどということを考えたりせず、あのまま死ぬまで瞬と繋がっていれば、自分は今頃こんなところで絶望に殺されてしまうこともなかったのに――と、氷河は己れの無思慮を悔やんでいた。 そして、もちろん、後悔というものは先に立たないものなのである。 すべては後の祭り。 過ぎ去った時間を取り戻すことは、誰にもできないのだ。 「こうなってしまったからには、俺が生きて帰っても仕方がない。俺はここで死ぬことにした」 「それは……結論を出すのが早すぎませんか」 ノシが、至極ありふれて常識的な言葉を――それゆえ人の心に響かない言葉を、氷河に投げかけてくる。 ノシの声が気遣わしげな響きをたたえていることが、かえって氷河の心をささくれ立たせた。 「所詮他人事だからな。貴様にはどうとでも言える。だが、俺は瞬に迷惑をかけるわけにはいかない。俺は瞬に嫌われたくない。瞬の負担にもなりたくない。俺は瞬を――」 幸せにしてやるつもりだったのだ。 二人で幸せになるつもりだった。 だが――。 気が狂ってしまった恋人の哀れな姿を認めることになった時の瞬の瞳。 その悲しそうな瞳を想像するだけで、氷河は絶望のために軽く100回は死ぬことができた。 ノシごときに、この気持ちがわかるわけがない。 「ですが、あなたには瞬さんを思い遣ることのできる心があるんですから、多少気が狂っていても、瞬さんはあなたを愛し続けてくれるかもしれませんよ」 狂気の元凶が、いけしゃあしゃあと言ってくれるものである。 こんな場所で 言葉を話すノシに出会いさえしなければ、氷河とて とうの昔に、愛しの瞬の許に帰るための活動を開始していたのだ。 だが、もうそんなことはできない。 『多少気が狂っていても、瞬さんはあなたを愛し続けてくれるかもしれませんよ』とノシは言うが、だからこそ瞬の許に帰れない男の気持ちが、薄っぺらな紙切れには理解できないのだ。 もちろん瞬は、気が狂ってしまった恋人を見捨てるようなことはしないだろう。 むしろ、以前より優しく、以前より深い思い遣りをもって接してくれるようになるかもしれない。 そして、瞬に優しくされる きチがいは、その狂った心のせいで瞬の優しさに何も報いてやることができないのだ。 それは、氷河には耐えられない事態だった。 |