「シュン、おまえにとって――おまえのいちばん大切なものは何だ?」
「大切なもの?」
「守りたいもの、失いたくないものだ。地位、財産、名誉、家名、約束された将来、名声、安逸――」
英国の上流社会に身を置く者にとって大切と思われるものを、ヒョウガは思いつく限り挙げてみた。

「僕は……」
シュンの答えは、だが、残念ながらそのどれでもなかったのである。
「平和――かな。誰も争わない、傷付け合うこともない、飢えることもない、すべての人に平等に幸福になるチャンスが与えられる世界。そんな世界を作ること。今はまだ実現しているとは言い難いけど、でも、それが僕にとっていちばん大切で、僕が何よりも守りたいものだよ」
「……」

シュンは何か――英国の上流社会に身を置く他の者たちとは まるで次元の違うところを見詰めている。
しばし呆け、なんとか気を取り直し、ヒョウガは再びシュンに尋ねた。
「おまえはここを出たら、ケンブリッジかオックスフォードに進むんだろう? 家は兄貴が継ぐにしても、おまえの家ほど手広く事業をしていれば、おまえが必要とされるポジションはいくらでもあるに違いない。あるいは、もし家を出るつもりでいるのだとしたら、外交官か弁護士、大主教――政界、法曹界、宗教界、おまえはどの道に進むつもりなんだ」
それらはすべて貴族か貴族に準ずる家の出の者でないと就くことのできない職業である。
シュンは当然、伯爵家の一員として英国社会が納得する場所に自分の居場所を築こうとしているだろうと、ヒョウガは思っていた。
が――。

「僕、できれば、救貧院の経営をしたいんです。お金持ちのきまぐれな慈善活動に頼る今のやり方は不安定だし非機能的だ。僕は、もっと恒常的に生活に困っている人を援助し続けられる組織を作りたい。そのために、誰でも基礎教育を受けることができるような施設も作りたいと思ってます」
「なに?」
通常それは、裕福なものが片手間に慈悲の心を神に誇示するために、あるいは売名のために行なう行為である。
しかし、シュンの動機は全く別のところにあるようだった。

「僕の家には、僕が生まれた時からずっと僕の身の回りの世話をしてくれていたメイドがいるの。もちろん、学校なんて行ったことはない。プレ・プレップスクールに行ってた頃、僕は、学校で勉強してきたことを得意がって彼女に教えていたんです。そうしたら、彼女は間もなく とても美しい詩を作って聞かせてくれるようになった。女性に教育の必要がないなんて嘘だ。ロウアークラスの人たちの中にだって、政治家や医者や弁護士や芸術家になれる人たちはたくさんいる。僕はそういう人たちの可能性を見付け 実現する組織を作ります」

「おまえが……社会の底辺にいる者たちの相手をするというのか――」
唖然とした次の瞬間、ヒョウガは、これまでの自分自身がひどく滑稽で卑怯な人間だったことに気付かされた。
そして、何もかもがおかしくて――何もかもが愉快に感じられて仕方がなくなってしまったのである。

約束されたエリートの道を歩もうとしなければ、それは“何ということもないこと”なのだ。
たとえ、その恋が英国社会の知るところとなり、風俗紊乱罪に問われることになったとしても、その罪を犯した者は死刑になるわけではない。
社交界に出ることができなくなり、公的役職、高い地位から追われ、人々に己が地位と権威を誇示することができなくなるだけのことなのだ。

名門貴族の一員として定められていた道と地位に固執しなければ、恋を貫いて生きていくことは容易にできる。
表面だけを取り繕った社交界に出なくてもよくなるというのなら、それは願ったり叶ったりというものではないか。
“ヒョウガ”という男が公爵位を継げなくなったとしても、それはそれだけのことにすぎず、“家”はどこからか代わりの者を探し出し、脱落者の一人など気にせず存続していくだろう。
英国の名門が消え去ることを、伝統を重んじる英国という国が許さないのだ。

己れの才にうぬぼれ、同輩や教師を軽んじ、不遜・奔放に振舞っているつもりで、その実、自分は押し込められた鳥舎の中で大声を出して騒いでいるだけのツグミにすぎなかったのだ――とヒョウガは思った。
その事実を認めれば、だが、非力なツグミにも世界というものが見えてくる。


「シュン、俺はおまえを愛している」
「僕も、ずっとヒョウガのことが好きだったの。ヒョウガが僕に顔をあげろって言ってくれた時からずっと」

二人がこれからどうなるかのは、ヒョウガにもわからなかった。
シュンには自分が“悪いこと”をしているという意識もない。
そしてヒョウガは、この恋がプラトニックなもので終わらせられる恋ではないことを知っていた。
それでも、シュンの本質が変わることはないだろう。
そのシュンを非難できるほど清潔な人間が、はたして英国上流社会には どれほどいるだろうか。
少なくともシュンの人となりを知る者には、そんな傲慢の罪を犯すことはできないだろう。
シュンの名誉は、シュンの恋人もまた、シュンと同じ高みに立つ人間になることによって守られるのだ。

そういう者になる決意をして、ヒョウガはシュンの身体をその腕で抱きしめた。





Fin.






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