その無憂の苑に、ある時、一人の侵入者が現われた。 薄汚れて、俺より小さな――おそらく人間。 いや、それは逆だったのかもしれない。――逆だったろう。 その侵入者の姿を見た時、俺はすぐに、これは人間だから薄汚れているのだと考え直した。 その侵入者からは血の匂いがした。 俺の直感が、これは汚らわしいものだと、しきりに俺に訴えてくる。 近寄りたくはなかったんだが、それでも近寄っていったのは、それがひどく弱っているように見えたからだ。 足元は頼りなく、よろめくように歩いていて、そのまま放っておいたら、その人間は、この世界に血の匂いより汚らわしくおぞましい“死”を持ち込むことになるのではないかと、俺は懸念した。 近付くと、その人間の手足は傷だらけだった。 髪や服は土と埃にまみれている。 その侵入者は、無憂の花園にこれほど似つかわしくないものはないと思えるほど、みすぼらしく哀れな様子をしていた。 小さな細い木の根方にうずくまっているそれに歩み寄っていくと、その気配を察したのか、その汚らわしいものはゆっくりと顔をあげた。 「あ……あ……」 俺の顔を見て――人間の若い男に似ているという俺の顔を見て――汚らわしい人間は、一瞬 瞳を宝石のように輝かせた。 みすぼらしい姿に比して、その瞳があまりに美しく清らかだったので、俺は少なからず驚いたんだ。 「おまえは何者だ」 俺が問い質すと、その人間は苦しげに顔を歪め、かすれた声で、 「瞬……」 と自分の名前――おそらく――を告げた。 俺が知りたかったのは、『瞬』が人間なのかそうではないのかということだったんだが。 「しゅん? どこから来た」 「ずっと北の……小さな村から」 この人間――おそらく――がどこから来たのか。 そんなことは聞いても意味のないことだと、瞬に尋ねてしまってから、俺は気付いた。 俺は、この無憂の苑を出たことがない。 この苑以外のどんな場所も知らない。 この人間がどこから来ようと、そこがどんなところなのかを想像することすら、俺にはできない。 要するに俺は、瞬から何を聞き出せたとしても、瞬がこの世界の外から来たのだということしかわからないんだ。 「おまえは血の匂いがする」 意識してそうしたわけではなかったが、瞬にそう告げた時、俺は顔を歪めてしまっていたらしい。 「……ごめんなさい」 瞬はすまなそうに俯いて、小さな声で謝罪してきた。 瞬も好きで怪我をしたわけではなかったろうに。 とはいえ、この世界に、苦しみや悲しみ、死や滅びを連想させるものがあってはならない。 それがこの苑の、決して破られてはならないルールだ。 「ここでは、それは許されない。せめてその血の匂いだけでも泉で洗い流してこい」 そう言って、俺は泉のある森の方角を指し示したんだが、そんな俺に、瞬は弱々しい笑みを向けただけだった。 どうやら瞬にはもう 立ちあがる力が残っていないらしい。 支えなしには歩くこともできなさそうだった。 それくらい瞬は弱っている。 血の匂いのするものに触れるのは嫌だったが、この苑に血の匂いを振りまかれるのは、なおさら困る。 俺は我慢できても、彼女が不愉快に思うだろう。 仕方がないので、俺は血の匂いのする人間の身体を抱き上げた。 瞬の身体は、驚くほど軽かった。 瞬の軽さに驚きながら、俺は泉のある森の中に入っていった。 ここには様々な色をした果実をつけた木がたくさんあって、そのことに気付いたらしい瞬は、遠慮がちな小さな声で、 「おなかが空いてるの」 と俺に言ってきた。 瞬を抱いたまま、俺が果樹の下に足を運ぶと、瞬は細い腕を伸ばして、枝から果実を一つ取った。 そうして、その赤い実を恐る恐る一口かじる。 瞬にはそれは初めて口にする実だったのかもしれない。 「甘くて、おいしい」 よほど飢え渇いていたんだろう。 人心地ついたようにそう言って、瞬は初めて俺に作りものでない笑顔を見せてくれた。 森の中の泉の岸に、俺は瞬をおろした。 果樹の実りで少しは力を取り戻したらしい瞬に、俺は、とにかく血の匂いを洗い流すように言った。 俺の目を気にしている素振りを見せながら身につけているものを脱いだ瞬が、脱いだものを腕に抱えたまま泉の中に入っていく。 瞬が身につけていた服は一枚の薄汚れた布きれにすぎなかった。 いっそ着衣のまま泉に入ってしまえばいいのにと思いながら、俺はその様子を眺めることになったんだ。 瞬は、そんな俺の目が気になるらしく、ちらちらと幾度も俺の方を窺い見る。 瞬が何をそんなに気にしているのか、俺は最初のうちは全くわからなかった。 俺の目を盗んで瞬は悪事でも働こうとしているのかと思っていたくらいだ。 瞬は自分の身体を清める様を他人に見られることに羞恥を覚えているのだという事実に俺が気付いたのは、瞬が泉の中にあった岩陰に身体を隠した時。 その感性が俺にはよくわからなかったが、瞬に悪意がないのなら俺も瞬の沐浴を見張っている必要はない。 「食い物をとってくる」 そう言って、俺は泉の岸を離れた。 瞬は甘いものが好きそうだったから、俺はなるべく濃い色に熟した果実を集めることにした。 俺はこの森にある果実を食えないことはないんだが、食う必要を感じることは滅多にない。 「それは、おまえが人間でないものになりつつということだ。そのうちに、飢えも渇きも感じないようになるだろう」 と彼女は言っていた。 だが、瞬は正真正銘の人間だから、これらのものが必要――というわけだ。 俺が数種類の果実を手に抱えて戻ってくると、瞬の水浴は終わっていた。 まだ少し湿った服を着ていて、布が身体にまとわりつき、瞬の身体の細い線を浮き上がらせている。 血や土埃を取り除くと、瞬は随分と綺麗な人間だった。 小さくて、やわらかそうで、風に揺れて微笑む。 大きくて澄んだ瞳は緑の新芽の色、唇は薄桃色の花びらの色、身体は白い花の花びらの色。 その風情は花の姿に似ていると、俺は思った。 いや、花そのものだと。 瞬が人間だなんて、俺には到底信じられなかった。 俺は、人間という生き物は、花にだけには似ていないものだろうと信じていたから。 「……もしかすると、あの人より綺麗かもしれない」 血と埃が取り除かれた瞬の姿を見た俺は、思わず そう呟いてしまっていた。 「あの人って?」 花のような姿をした瞬が、花がそうするように微かに首をかしげる。 「俺の母だ」 本当は母ではない。 “母のようなもの”だ。 彼女はそう言っていた。 訂正するのも面倒で――俺は自分の言葉を訂正しなかった。 “母”でも“母のようなもの”でも さほどの違いはない。 俺には、母と呼べる人は彼女しかいないんだから。 「え……」 俺の答えを聞くと、瞬はなぜかびっくりしたような顔になった。 これは瞬の癖なんだろうか。 瞬が表情を変化させるたびに、新芽の色をした大きな瞳が、宝石のように輝き、揺らめく。 その様子は花よりも綺麗で可愛い――と俺は思った。 |