俺の言葉を、彼女がどう受け取ったのかは、俺にはわからない。 俺は、それだけが――俺が彼女の側にいることだけが――彼女の愛に報いるために俺にできるただ一つのことだと思っていたが、それも俺が一人で勝手に思い込み、俺が一人で勝手に決意していただけのことだったから。 ずいぶんと長い時間、彼女は沈黙を守っていた。 無言で俺を見詰めていた。 この寂しい苑に咲く色とりどりの花のように、彼女の瞳の色は様々に変化し、最後に彼女は孤高の眼差しをたたえた女王の姿に戻った。 「氷河。おまえは私を哀れんでいたのか?」 抑揚のない冷たい声。 冷たく寂しい、その声――。 「もう、よい。この私が人間に哀れまれるなど……。氷河、おまえはここを出ていけ。ただの人間にすぎないものの分際で、高慢にも私を哀れむなど、そんな者にここにいる資格はない!」 それは、一つの世界の支配者にふさわしい声だったのかもしれない。 その響きに、俺は――そう、彼女が言う通り憐憫の情を抱いていた。 「おまえが忘れてしまったことを教えてやろう。もちろん、おまえは人間だった。人間界にいる時には、そこの瞬と恋人同士だったのだ。死ぬまで共にいることを約束した者同士だった」 俺の胸中にある哀れみの心に気付いたから、彼女はその事実を俺に告げる気になったんだろう。 真に哀れまれるべき者は、この世界の女王ではなく、過去の記憶を自ら放棄した心弱い人間の方なのだということを、俺に知らせるために。 「おまえの母親は重い病を得て、臥せっていることが多かった。ある夜、おまえは母親が寝入ったのを見計らって瞬の家に行き――そう、初めて瞬と身体を交えた。たしか、その年の最初の雪割草が咲いたら夜を一緒に過ごすと、瞬は言っていたのだったか? おまえはその日、その年の最初に咲いた白い花を見付け、嬉々として瞬の家に向かった。その夜、おまえの母は死んだんだ。おまえが あさましい欲に夢中になり、歓喜しているその時に。おまえが、自分は幸福の絶頂にいると思いあがっていた時に、おまえの母は病がもたらす苦痛に足掻き苦しみ、一人きりで、おまえの名を呼びながら死んでいった」 真に哀れまれるべきは、彼女ではなく俺の方だった――俺の方だった。 「おまえは己れの愚行を後悔し、母の死を嘆いた。私はその嘆きに引き寄せられ、おまえを哀れんで、その つらい記憶を消してやろうかと尋ねたのだ。おまえはすぐにそうしてほしいと答えた。永遠の愛を約束した者の目の前で、すべてを忘れさせてくれと、おまえは私に懇願した。そうしてすべてを忘れたおまえは、瞬を捨て、私と共にこの無憂の苑に来た」 「俺は……」 少しずつ、記憶が蘇ってくる。 がくがくと膝が震え、身体中の血が凍りつく。 息をしているのが苦しい――生きていることが苦しい。 手足が冷えきり 今にも倒れそうになった俺を、瞬が支えてくれた。 そうだ。 俺は、俺の母を殺した。 俺は、俺だけを愛してくれていた、たった一人の真実の母を殺した。 俺には孤独な“母”を哀れむ資格も権利もない。 俺は、母を殺した息子だ。 俺は殺したんだ。 世界で最も優しく美しかった人、この命を生んでくれた人――俺の母だったひとを――。 母が微笑んでいる顔しか思い出せないのがつらい。 あの夜、俺の胸の下で幸福そうに微笑んでいた瞬の瞳と、母の笑顔が重なって、俺は声を限りに叫びたい衝動にかられた。 そんな俺を、瞬が強く抱きしめ、訴えてくる。 「氷河……氷河、泣かないで! 苦しまないで……泣かないで……!」 そう言う瞬の方が、瞳にいっぱいの涙をためている。 瞬の方が、俺よりずっと苦しそうだった。 『僕のせいで苦しんでいる人がいるのに――』 ああ、そうだ。 そう考えるのが人間だ。 瞬は誰より優しい心を持った人間で――瞬は――瞬はいったい俺のためにどれほど涙を流したんだろう。 自分の苦しみと悲しみから逃れることだけを考えて、瞬を忘れ瞬を捨てた俺のために、瞬はいったいどれだけ泣いたんだ。 苦しいのは俺だけじゃなかった。 悲しいのも俺だけじゃなかった。 なのに、俺はあの時――彼女が俺の前に現われた時――世界中の苦しみと悲しみはすべて俺の上にだけ降ってきているのだと思い込んでいた。 瞬が悲しんでいることなんて――いや、俺以外の者が悲しんでいることなんて考えもしなかった。 そんな考えるまでもないことに、あの時 俺が気付いていたら、俺は瞬をこんなに悲しませずに済んだのに! 俺は今初めて、瞬の苦しみと悲しみに気付いた――。 「大丈夫……大丈夫だ。一人で立てる」 そのことに、やっと俺は気付いた。 やっと知った。 あの時、俺は、それでなくても俺のために苦しみ悲しんでいた瞬に、俺の分の苦しみと悲しみまでを負わせてしまったんだ。 「氷河……」 そんなひどい男を、瞬が気遣わしげに見詰めてくる。 瞬――可愛い心配性の瞬。 俺はどうして、この悲しいほど綺麗な瞳を忘れて生きていられたんだろう――? 俺が生きていくためには――真に生きていくため、人間として生きていくためには、この瞳こそが必要で、自分が犯した過ちを忘れることは決して必要なことではなかった。 それは忘れるべきことではなく、乗り越えるべきことだったのに。 |