息を呑んで見守っていた者たちの口から、溜め息や感嘆の声が洩れ、それはやがて大きな歓声へと変わっていった。
それまで死んだようになっていた小さな奴隷の心は、大きく波打っていた。
氷河の命は失われない。
彼は生き続ける。

瞬の瞳には涙がにじんでいるというのに、その涙の向こうにいる人は、自分が欲するものを手に入れることができるのは当然のことだというかのような態度で、その勝利にさほど感動した様子も見せていなかった。
自信家の彼らしいと、涙を拭いながら瞬は思ったのである。
氷河は、恋と彼が治めるべき国を手に入れる。
彼は美しい姫を妻にする。
瞬は、それでも、今は彼の命が失われないことが嬉しかった。

その場でこの事態を最も喜んでいるのは、姫君の父王であるように見えた。
今日を限りに、娘のために死んでいく若者たちの姿を見ずに済むようになるのだから、それも当然のことだったろう。
喜色満面の国王とは対照的に王の隣りの御座にいる姫君は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
自分の夫が、若く美しく聡明なことを確かめることができたというのに、エリス姫はその事実を全く喜べずにいるらしい。
用意していた謎を解かれてしまった大国の姫には、自らのプライドを傷付けられたことの方が大きな問題なのかもしれなかった。

そんな王女の様子を見ても、氷河は さほど落胆しているようには見えなかった。
これまで幾人幾十人の王子たちが挑み解けずに命を落とした謎を難なく解くことのできた事実が、彼に余裕を持たせているのかもしれなかった。
今は自らの敗北に憤っている姫も、いずれは彼女の夫の意に従うようになる――従わせてみせる――と、彼は考えているのだろう。
瞬の目にはそう見えた。

「姫君は、この結末が不快なようだ」
自身の勝利を喜んでいるとは言い難い口調で、氷河が言う。
姫君の父が慌てて娘の腕を揺さぶったのだが、エリス姫は父王に促されても にこりともしなかった。
楽しくない時には笑わなくてもいい。大国の姫には、そう振舞うことがこれまで許されていたのだろう。

夫の出現を喜んでいる気配のない姫に、氷河は彼の言葉を続けた。
「姫君の不快ももっともなことだ。チャンスが俺にだけ与えられているというのも不公平な話だからな。姫にもチャンスを与えよう。今度は俺が謎を出し、その謎を姫が解くことができたら、俺は姫を諦めることにする――というのはどうだ?」
氷河の提案に、エリス姫が瞳を輝かせて身を乗り出す。
エリス姫を不機嫌にしていたのは、この結婚――というより、自らの敗北の事実だったのかもしれない。
その事実をなかったことにできるのなら、彼女は、気に入らない夫の提案を受け入れることも やぶさかではないようだった。

「では、そうだな。明日の夜明けまでに、姫君が俺の名を言い当てることができたら、俺は姫を手に入れることを諦め死んでやろう」
(氷河……!)
氷河がそんなことを言い出した意図が、瞬にはわからなかった。
せっかく失わずに済んだ命を、なぜ彼はまた危険にさらそうとするのか。
自らの敗北を認めようとせず、夫の出現を喜ぼうともしないエリス姫に多少の不快を覚えたにしても、それは軽率に過ぎる提案である。
だが氷河は、一時の感情に流されて そんなことを言い出したわけではないらしい。
彼の声は落ち着いていて――むしろ冷ややかでさえあった。

「もっとも俺の名を知る者は、この世界には俺の他にはたった一人しかいないがな。俺の国の民も肉親も家臣たちも――俺は冥府の王に奪われてしまったから」
「……」
瞬は背筋に冷たいものが走るのを自覚した。
その“たった一人”の人間というのは、どう考えても彼の非力な奴隷のことである。

「俺がこの賭けに負けるのは、その者が俺を裏切った時だけだ。その者に裏切られたら、確かに俺は死ぬしかないだろう」
そう告げる氷河の視線は、まっすぐに瞬に向けられている。
氷河の視線の先を辿って、広間にいる者たちのすべての視線は――王の視線も王女の視線も――広間の隅にいる小さな奴隷の上に注がれることになった。

『その者』が誰なのかを周囲の者に知らせてしまう氷河の行動は、確たる自信に裏打ちされて為されたことであったにしても、エリス姫の目には これ以上はない愚行と映ったらしい。
こんな愚かなことをする者が持ち出す賭けになら大いに勝機があると踏んだのか、復讐心に燃える姫は、氷河が提案した賭けに乗ることを即座に承知した。






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