「む……」 それまで瞬の姿しか視界に入れていなかった氷河が、初めて周囲に視線を向け、顔をしかめる。 瞬の言う通り、ここには見物人が多くいすぎた。 長い時間を経て ついに結ばれようとしている恋人たちに気を利かせて席を外せばいいものを、この国の王も王女も彼等の廷臣や兵たちも、恋人たちのために立ち去るどころか、目を凝らし、固唾を飲んで二人のやりとりを見詰めている。 「まあ、慎みがないといえばいえるな。なら、今すぐどこか二人きりになれるところに行こう」 他者の存在を知覚することと、彼等に配慮することは全く別の行為である。 見物人たちを無視して、氷河は瞬の手を取った。 彼はとにかく気が急いていたのだ。 悠長に構えていると、せっかく溶けてくれた瞬の心が再び凍りついてしまいかねない。 「待て、この!」 仮にも求婚者の目の前で他の人間を口説き続ける氷河にあっけにとられていたエリス姫が、断りもなく立ち去ろうとする異国の王子を、ヒステリックな声で引きとめる。 ここがどういう場所で、自分がどういう立場の者としてこの場にいるのかを、どうやら氷河は本気で失念していたらしい。 「ああ、忘れていた」 彼は面倒臭そうに舌打ちをして呟いた。 それはごく低く小さな呟きだったのだが、瞬は氷河の呟きが この国で最も強大な権力を持つ姫君の神経を逆撫ですることになるのではないかと、ひやりとしてしまったのである。 その心配は無用のもの――もとい、無意味なものだったが。 氷河は、その危険な呟きのあとに、その呟きより無礼なことを、王宮の広間中に響く大きな声で言い放ったのだ。 「オヒメサマは自分の行動を改め、これまでの自分の所業を償った方がいいぞ。自分以外の人間にも心があり、彼等は彼等で懸命に生きているという、馬鹿でも知っていることを いい加減に覚えないと、それでなくても見るからに欲求不満のサド姫なんだ。ありとあらゆる人間から憎まれて、この国に革命も招きかねない。それで王女でも何でもない一人の人間になってしまったら、欲求不満のサド女なぞ、どんな男も相手にしようとは思わないだろう。その 剣のある顔は見るに耐えない。性格がにじみ出てしまっているんだな。俺の瞬とは大違いだ」 「見るに耐えないだとぉーーーっっ !! 」 「そうやって眉を吊り上げて、それでなくてもきつい顔を更にきつくすると、地獄の悪鬼そのものだ。まず、まともな男はみんな逃げ出す。一国の王女ではなく一人の人間としての貴様に、もし本気で惚れる男がいたら、俺の考えが間違っていたことを認めて3遍回ってわんと言って非礼を詫びることを約束してやってもいいくらいだ。まあ、俺が永遠にそんなことをせずに済むのは わかりきったことだが」 瞬の氷のような心を溶かすために、氷河はずっと言いたいことも言わずにいたのだろう。 ついに彼の目的を果たした氷河は、それまでずっと胸中に溜め込んでいたものを一気に吐き出した感があった。 言いたいことをすべて言い終えると、瞬の肩を抱いて、氷河は何の未練も躊躇も感じていない様子で、王女に背を向けた。 すたすたと広間の出口に向かって歩き出した氷河の背中に、エリス姫が癇走った声を響かせる。 「その者……その者を捕えよ! 捕えて、首をちょん切ってしまえっ!」 「その者とは誰のことです」 「その者だ。えーと、氷河とかいう名の無礼な――」 「あの方には違う名が他にあるようですが」 瞬に剣を渡した あの兵が、白々しく彼の主君に申し立てる。 異国の王子と奴隷のやりとりを聞いているうちに、彼は、我儘な王女の命令に屈従するしかない兵士になる前に、自分が一人の人間だったことを思い出したらしかった。 この国の王女の命令に従おうとしない兵の様子を見た東の国の王は、ここに至ってやっと、自国と我が身に迫る危険に気付くことになったらしい。 たまたま王家に生まれた幸運の上にあぐらをかいて傍若無人と優柔不断を続けていると、王家は本当に転覆してしまいかねない。 王も王女も兵士も奴隷も、元を辿れば一人の人間。 誰もが自らの命の存続を願う心と、幸福を求める心を持っている。 人間のその力を軽視することは、危険この上ないことだった。 「彼の言うことは正しい。そなたは心を入れ替えて、言動を改めよ」 王が初めて、王らしい威厳を王女に示す。 エリス姫は一瞬 反抗的な目を父王に向けたが、やがて力なく両肩を落とすと、俯くような仕草で横を向いた。 広間にいた廷臣や兵士たちは一様に安堵の息を洩らすことになったのである。 王が王女の暴走を抑えてくれるようになれば、この国も少しはマトモになるだろう。 そうなれば、この国が革命や反乱の嵐に見舞われることもなくなる。 人間というものは、いつも小さな変化を望んではいるが、自らが培ってきた価値観が根底から覆るような大きな変化は、実は望んでいないものなのだ。 大きな変化を受け入れようとすれば、先程まで彼等の前で北の国の王子に口説かれていた奴隷のように、半端でない勇気と覚悟を奮い起こさなければならなくなる。 その奴隷は、王宮の長い廊下をまっすぐに外に向かって突き進んでいく氷河についていくために息を切らせていた。 「氷河、本当にあんなことをするの」 「あんなこと?」 「3遍回ってわん、なんてこと」 「するぞ。あの女が心を入れ替えて行動を改めてくれたならな。結局 俺は自分の恋のために あの姫の我儘を利用したようなものだし、この先 馬鹿なことで命を失う者が出なくなるというのなら、それくらいのことはしてやってもいい」 「うん……。そうなったらいいね……」 氷河がそんな真似をしている姿は、瞬には想像もできなかったが、氷河が自分の軽率な約束を悔やむ時がくればいいと、心から思う。 そうなった時の氷河の満足と屈辱の入り混じった心境を想見して、瞬が小さな苦笑を洩らした時、二人はやっと王宮の長い廊下を抜けることになった。 更に先に進むと、そこには、これから二人が生きていく市井がある。 東の国の王宮の庭には、懐かしい北の国で二人を結びつけた白い花に似た花が咲いていた。 花はどこにでも咲くことができるのだ。 その美しい姿にも関わらず――だからこそ?――花は強い。 王宮の者たちは さすがに恋人たちに気を利かせることを学んだのか、氷河と瞬はそこで二人きりだった。 やっと先を急ぐのをやめた氷河が、故国の王宮の庭を思わせる花園の中で、瞬に向き直る。 世界で最も美しい花を見詰めるような眼差しで瞬を見詰め、氷河は瞬に謎をかけてきた。 「人は誰もが その心の中に、偏見や頑迷や囚われるべきではない先入観を持っている。それは氷のように冷たく頑なで、人間から自由を奪い、幸福になることを妨げる。その氷を溶かす力を持っているもの。それは何か」 そこには花の他には瞬と瞬の恋人しかいなかったのだが、瞬は用心深く辺りを一度見回してから、小さな声で、だが確信と希望に満ちた声で、その謎の答えを氷河に告げた。 「――愛」 誰にも解くことのできない難しい謎も不思議も、最後にはその答えに行き着くのだ。 「俺の瞬は美しくて優しいだけでなく賢い」 満面の笑みを浮かべて、氷河は彼の恋人を抱きしめた。 Fin.
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