「あの……赤い花の咲いている島をご存じありませんか。南の海だと思うんですけど」
二人の夜に悲しい夢は訪れてほしくない――氷河に無用の心配はかけたくない。
瞬は、どうあっても その夢を二人のベッドから追い払ってしまいたかった。
そのためには夢解きをしなければならない。
だから瞬は、沙織に尋ねてみたのである。
あの夢に映し出される場所に、瞬は全く心当たりがなかったのだが、沙織なら何か知っているのではないかと考えて――期待して。
沙織は、昨日 聖域から日本に戻ってきたばかりだった。

「赤い花の咲いている島? どんな感じの島なの?」
「あの、人家もないような小さな島で、見た限りでは周囲に島もないような――もしかしたら、夜だから他の島影が見えないだけなのかもしれないんですけど――」
「夜?」
いったいどういう事情があって瞬はそんなことを訊いてくるのかと、沙織は訝ったようだった。
何事かを考え込むように首をかしげ、確信はなさそうに、彼女の知っている“赤い花の咲く島”に関する情報を知らせてくる。

「エーゲ海に一つあるわよ。悲劇の恋人たちの伝説があるので有名な――いえ、知る人ぞ知る島と言った方が適切かしら」
「悲劇の恋人たちの伝説?」
「キクラデス諸島とクレタ島の中間くらいにある島で、ミコノス島から遊覧船が出ているはずよ。ただ、観光目的で行くのなら、私はあまりお勧めはしないわね」
「どうしてですか」
「本当にムードも何もない観光地なのよ」

沙織が肩をすくめて、瞬にぼやく。
『観光地だから観光目的で行くことは勧めない』――矛盾してはいるが、沙織の言いたいことは瞬にもわからないではなかった。
要するに その島は俗っぽい観光地化していて、悲劇の伝説にふさわしい神秘的な場所ではなくなっている――ということなのだろう。

「今の時季だと、カップルや新婚旅行客が押し寄せてると思うわ」
「新婚旅行客?」
「ええ、恋人と二人で その赤い花を見ると、永遠の愛が得られると言われてるの」
「でも、伝説は悲恋の伝説なんでしょう?」
「それはそうだけど、悲恋というのは、恋人たちが真剣かつ熱烈に愛し合っているからこそ生じるものでしょう。本気で恋をしていない人たちは悲恋にも無縁よ」
沙織の意見に異議を唱えようとは思わなかったが、だからといって、世の恋人たちが その島に押し寄せるのは何かが間違っている――と、瞬は思った。
が、今、瞬が求めているのは伝説の恋にあやかることではなく、あの夢の謎を解くことなのである。
沙織の制止の根拠は、その行動の妨げになるようなものではなかった。

「その島に行ってみたい――んですけど……」
「どうして?」
瞬に尋ねながら、沙織が氷河の上にちらりと視線を投げる。
沙織が、彼女の聖闘士たちの関係に気付いていることに気付いて、瞬は気まずさを含んだ羞恥に囚われることになった。
沙織の眼差しの意味するところに、星矢たちは気付かぬ振りをしてくれていたが、それもまた瞬には気恥ずかしさを誘うものだった。

だが今はそんなことより、あの夢を撃退することの方が優先されるべき問題なのである。
しばし悩んでから、結局 瞬は、自分がそんなことを言い出した理由を、沙織に――つまりは、その場に同席している氷河に――知らせることにした。
自分がそんな考えを思いついた原因は不可思議な夢にあるのであって、氷河や氷河に関わることが原因ではないのだと知らせておいた方が、氷河に不必要な懸念を抱かせずに済むだろうと、瞬はそう思ったのだ。

「夢を――夢を見るんです。繰り返し」
「夢?」
「ええ。赤い花の咲いている島と、その近くの海に浮かんでいる小舟の夢。なぜそんな夢を見るようになったのかが、僕にはまるでわからなくて、でも気になって――。できれば そんな夢を見ずに済むようになりたいんです。沙織さんのおっしゃる島があの夢の島でなくても、実際に行ってみれば、もしかしたら それだけで気が済んで、あんな夢を見ないようになるかもしれないですし――」

沙織の言う赤い花の咲く島が 夢に出てくる島だとは、瞬も思っているわけではなかった。
そもそも あの島が実在する島なのかどうかすら、瞬にはわかっていないのだ。
瞬の心を動かしているものは、あの夢を追い払うために何かをしたいという、言ってみれば 気休めを求める気持ちと、ある種の焦慮だった。
そこに行けばすべてが解決するという確信など、全くない。
一縷の希望は、ないでもなかったが。

「そんなに気になるなら、氷河と二人で行ってくればいいじゃん」
瞬にそう言ったのは星矢だった。
「ああ、それがいい」
紫龍が星矢の提案に賛意を示す。
『氷河に心配をかけないこと』が瞬の決意の主たる動機だったので、その目的を果たすために自分は一人で行動しなければならないのだと、瞬は思い込んでいた。
星矢の提案は、だから、瞬には想定外のことだったのである。

「氷河と……?」
反射的に尋ね返した瞬に、紫龍が分別顔で頷いてくる。
「恋人同士や新婚旅行客でいっぱいのところに、そんなふうに思い詰めた顔をしたおまえが一人でいたら、幸せいっぱいのカップルたちに水を差すことになるだろう。不審がられることになるかもしれない」
「でも……」
これは氷河に関わることではない――。
あの夢を氷河には無関係なものにしておきたかった瞬は、仲間たちの勧めに従うことを躊躇した。

「ついて来るなと言ってもついていくぞ、俺は」
他でもない氷河当人が、シュンの躊躇と懸念を無意味なものにする。
それでも ためらいを振り切ることができずにいた瞬に、沙織がアテナの決断を下してきた。
「そうね。瞬一人で行くのはよくないわね。二人で行ってらっしゃい。ちょうどいいわ。あなた方に頼みたい極秘任務があるし」
アテナの決定は、アテナの聖闘士たちにとって絶対服従しなければならない命令である。
にこやかに微笑む沙織の言葉に、瞬は逆らうことはできなかった。
「極秘任務?」
「アテナ神殿にね、誰にも気付かれぬようにベッドを運び込んでほしいの。注文はもう2ヶ月も前に済ませてあるわ。あとは搬入だけなの」
「ベッドって、どうして――」
その作業を、アテナは彼女の聖闘士たちにしてほしいと言うのだろうか。
アテナの命令とあれば、もちろん瞬は否やを言うつもりはなかったが、しかしなぜ沙織はそんなものを? ――という思いを、瞬は抱かないわけにはいかなかった。
口許に浮かべていた微笑を消して、沙織が真顔になる。

「石のベッドに眠るのはね、とてもとても つらいことなのよ。あればかりは、アテナだから耐えられるっていう試練じゃないわ。でも、あれを堂々とアテナ神殿に運び入れるのには、さすがの私も気がひけるのよね」
「……」
沙織が瞬にそんな極秘任務を課したのは、もしかしたら、敵が現われたわけでもないのに 新婚旅行客でいっぱいの観光地にアテナの聖闘士が二人連れで出掛けていくことを、瞬に遠慮させないためだったのかもしれない。
瞬は彼女の厚意に甘えることにした。






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