気がつくと、瞬は氷河の腕の中にいた。
空に星はない。
代わりに瞬の頭上にあるものは、いかにも南欧らしい力強い色をした青い空だった。
穏やかな午後の微風が瞬の髪を撫で、船着場の方からは、あと30分でミコノス島に戻る船が出ることを知らせる到底ロマンチックとは言い難い男の声が響いている。

「生きて……死んでいったんだろうか、あの二人――は」
瞬は、悲しい恋人たちと何百年もの時を共に過ごしたつもりでいたのに、実際にはそれは1時間にも満たない短い間の出来事だったらしい。
瞬は伝説の樹を仰ぎ見ることのできる場所に置かれた石のベンチに腰をおろしている氷河の腕に抱きかかえられていた。

「びっくりしたぞ」
まだ意識が明瞭になりきれていない瞬の顔を、氷河が覗き込んでくる。
その明るい空色の瞳に出会った時、瞬は自分の長い夢が終わったことを知った。
仮にもアテナの聖闘士が前触れもなく突然倒れたら、それは氷河でなくても驚かずにはいられないだろう。
「ごめんなさい、急に倒れたりなんかして」
瞬が腕と肩に力を込め、氷河に支えてもらっていた上体を立て直すと、氷河は心を安んじたような微笑を瞬に向けてきた。

「おまえがあんなに激情的だなんて知らなかった」
「え……」
その時初めて、瞬はその可能性に思い至ったのである。
あの夢を見ていたのは自分一人だけではなく、氷河もあの場にいたのかもしれない――という可能性に。
もしかしたら、瞬がシュンの中にいたように、氷河もヒョウガの魂に同化して、あの不可思議な世界に引き込まれていたのかもしれない――と。

「おまえの夢――ハーデスの魂魄が見せていたものじゃなかったんだな。心配していたんだ。見当違いの心配だったようだが」
「氷河……」
「あの二人がおまえを呼んでいた――のか。あの二人にとって、おまえは長い絶望の果てで最後に見付けた希望だったのかもしれない」
もしそうだったのだとしたら――だとしたら。
「もしかして、氷河もあの夢を見るようになっていたの? あの……僕と一緒に眠るようになってから……?」

瞬が恐る恐る尋ねると、氷河は笑って首を横に振った。
「俺は逆で――おまえと寝るようになってから、あの夢を見なくなっていたんだ。それまではずっと――シベリアにいた頃から何年も、無人の舟が一つ浮かんでいる他には何もない海の上を当てもなく漂う夢ばかりを見ていた」
「氷河……」
「おまえをこの手にしてから、その夢を見なくなったから、俺はついに自分の本当の居場所を見付けたんだと思っていたんだ」
「そうだったの……」

では、彼等はずっと――瞬があの夢を見るようになるずっと以前から――彼等の希望を探して さまよい続けていたのだろう。
ヒョウガの魂は氷河の孤独を見付け、シュンの心は氷河との恋を知った瞬に共鳴し、彼等の最後の希望をアテナの聖闘士である二人の恋人たちに求めたのかもしれなかった。

彼等が求めていた希望を、自分は彼等に与えてやることができたのだろうか?
相変わらず 儚げな様子の花をつけているシュンの化身を、瞬は少し切ない面持ちで見上げた。
その姿には、瞬があの夢の中に引き込まれる前と後とで 何も変わった様子がない。
瞬は僅かに瞳を曇らせただけだったのだが、氷河はそれで瞬の懸念を察してくれたらしい。
『世界はちゃんと変わった』とでも言うように、彼は首を左右に振った。

「あの樹が枯れるのはもう止められないようだがな。さっきこの島の管理人が、樹の根元に新しい小さな芽が二つ姿を現わしているのを見付けて興奮していたぞ」
「新しい芽――ほ……ほんと?」
「本当だ。多分、あの花で生計を立てている奴等は、張り切って新しい伝説を捏造するだろう。なにしろ数百年の時を経て生まれた、新しい希望の芽だから」
人間て奴はどこまでたくましくできているんだか――とぼやく氷河の声は、決して皮肉めいてはいなかった。

瞬が赤い花をつけている樹の側に駆け寄る。
そこには、氷河の言葉通り、悲しい恋の伝説の恋人たちの置き土産のような小さな二つの芽があった。
それは今はまだ本当に小さく、人に踏まれればすぐに潰れてしまいそうなほど 華奢な姿をしていた。
だが瞬は、その小さな二つの芽が、やがては見上げるほどの大樹になり、永遠の恋の伝説に惹かれて この島を訪れる恋人たちの道標となるだろうことを確信することができたのである。
小さなその二つの芽は若々しい緑色をし、何より希望に輝いていた。

腰をかがめて、今はまだ小さい二つの新芽に見入っている瞬の髪に、氷河が指を絡めてくる。
「俺たちの戦いは続く。もし俺が死んだら、おまえは――おまえも花になるのか」
「僕は花にはならない。その必要がないもの」
顔を上げ、瞬は、彼の 生きている恋人の青い瞳を見詰め返した。
この瞳の中に自分の希望はある――と、心から思う。

「シュンは、自分が聖闘士じゃなかったから――ヒョウガと共に戦うこともできない自分の非力が悲しかったんじゃないかな。僕は、アンドロメダ島で、かなり早くから小宇宙に目覚めてたんだ。それにふさわしい技術や肉体の強さを手に入れる前から――。あれはもしかしたら、僕の力じゃなく、シュンの願いだったんじゃないかって気がする。シュンは、いつもヒョウガと同じ場所にいて、ヒョウガと一緒に戦いたかったんだ、きっと。自分が何もできないことが悲しくて、せめて僕には……って」
「おまえの力はおまえ自身が養ったものだ」
「それはどうかわからないよ。僕は今だって氷河に力をもらって、こうして生きているし、シュンも――シュンは、他の人間には案外積極的に働きかけていたのかもしれない。ヒョウガに対しては、嫌われたくないの一心で随分臆病だったようだけど」
『まるで僕みたい』と瞬が続けた言葉に、氷河が『面白い冗談だ』と真顔で答える。

それで瞬は少々拗ねた表情を作らなければならなくなってしまったのである。
だが、それも長くは続かず――瞬は首を傾けるようにして、その身体を氷河の肩に預けた。
「氷河と一緒に戦って、共に一生懸命生きて、そして共に死ぬ。自分の生を懸命に生きて死ねるって本当に恵まれた――幸せなことなのかもしれないね。それだけ生き抜いたなら、きっと後悔もない」
だから自分は花になる必要はないのだと、言葉にはせずに訴えてくる瞬に、氷河は浅く頷いた。
そして、瞬の肩を抱き寄せる。
「ああ」

二人で戦い、二人で生き、いつかは二人で死んでいく――。
二人でこうして寄り添っていると、氷河と瞬は自分の生と自分たちが生きていることの価値を信じることができた。
自分一人だけでは、その価値を認めることはできない。
二人だから――『あなたに生きていてほしい』と願ってくれる人がいることを知っているから――氷河と瞬は自分の命の価値を認めることができるのだ。

「自分の死や生を他人に強いられたから、あの二人はあんなことになっちゃったのかな」
「人は誰も自ら望んでこの世に生まれてくるわけじゃないぞ。誰だって、他の力に強いられて、この世に生まれてくる」
「その中で、生きることと流されることは違うでしょう」
瞬が軽く言ってのける。
言ってのけてから、瞬は、そんなことを簡単に言い切ってしまえる自分自身に驚いて、少し恥ずかしそうに肩を丸めた。

「僕はこれまでずっと、自分が聖闘士だってことを、心のどこかでずっと悲しんで嫌がっていたけど、今は素直に嬉しいって思える。聖闘士になることは、僕が自分から望んだことじゃなかったけど――でも、そのおかげで僕は氷河と一緒にいられる。氷河と一緒に戦えるもの」
「瞬……」
それが地上の平和と安寧を乱す敵であっても、人を傷付けることをあれほど厭うていた瞬のその言葉が意外で、氷河は僅かにその瞳を見開いた。
そして、瞬は確かに花にはならないだろう――と思った。

瞬は人間として生まれ、人間として生き、戦い、そして、人間として死んでいくだろう。
これからも迷い悲しむことはあるだろうが、それらのものを乗り越えて自らの生を生き抜くだけの力を、瞬は有している。
ならば自分も その瞬にふさわしい男でいなければならないと、氷河は今更ながらに思ったのである。
それは不可能なことでも難しいことでもないはずだった。
この地上に自分の意思を持った人間が初めて現れた時からこれまでずっと、それは多くの人間が成し遂げてきたことなのだ。
与えられた命を、精一杯生きること――は。
まして、氷河という男の側には、彼に無限の力と希望を与えてくれる瞬という人間がいてくれるのだから。

「さて、じゃあ帰るとするか。俺たちの居場所で、悔いなく生きるために」
「うん」
自らの生と恋を全うしたい恋人たちは、そうして、永遠の恋の伝説に彩られた赤い花の咲く島をあとにしたのである。






Fin.






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